遣唐使


遣唐使は、唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報入手と、先進的な唐文化の摂取が目的でしたが、日唐関係が安定した八世紀以降は後者の比重が大きくなりました。
唐の諸制度や文化に通じた留学生・留学僧は、建設間もない日本の律令国家を整備する上で不可欠であり、その意味で遣唐使は律令国家の繁栄を支えていたのです。

ま、今の東京大学のような官僚養成大学が無かったので、外国に情報収集もかねて留学させたということです。しかし当時は航海技術が未熟であったため、渡航はまさに命がけでした。


遣唐使の苦難
原文
(天平十一年)十一月辛卯、平群朝臣(へぐりのあそん)広成朝を拝す。

初め広成、天平五年、大使多治比真人広成(たじひのまひとひろなり)に随ひて入唐す。六年十月、事おわりて却帰(かえる)とき、四船同じく蘇州より発して海に入る。悪風忽(たちま)ちに起こり、彼此相失ふ。広成の船一百一十五人、コンロン(漢字無)国に漂着す。賊兵有り、来り囲みて遂に拘執せらる。船人或は殺され、或は逃散す。自余の九十余人、障(じょう)に著きて死亡す。広成等四人、僅かに死を免れ、コンロン王に見(まみ)ゆるを得たり。よりて升糧を給ひ、悪処に安置せらる。

七年に至り、唐国欽州の熟コンロン有りて彼に到る。便りに喩(ぬす)み載せられ、出で来て既に唐国へ帰る。本朝の学生阿倍仲麻呂に逢ひ、便(すなわ)ち奏して入朝することを得、渤海の路を取りて帰朝せむことを請ふ。天子これを許し、船糧を給ひて発遣せしむ。十年三月、登州より海に入る。五月、渤海の界(さかい)に到るに、適(たまたま)其の王大欽茂、使を差(つかわ)して我が朝に聘(へい)せんと欲するに遇(あ)ひ、即時同じく発す。渡海するに及びて、渤海の一船、浪に遇ひて傾覆す。大使岨要徳等四十人没死せり。広成等遺(のこ)れる衆を率い、出羽国に到着す。

コンロン国:「旧唐書」には林邑(インドシナ半島東南部の国)の南にあると記されている。
:熱病の一種  阿倍仲麻呂:717年に入唐。帰国途中遭難して唐に戻り、朝衡と改名して唐に仕えた。詩人李白との親交でも知られている。  天子:ここでは玄宗を指す

  

(739年)11月3日、平群朝臣広成が天皇に謁見した。

広成は733年に遣唐大使多治比真人広成の一行に加わって入唐した。翌年10月に任務を果たして帰国の途についた。帰国の四船は同時に蘇州から出発したが、たちまち暴風が発生して離ればなれになった。広成の乗っていた船と乗員115人はコンロン国に漂着したが、賊に襲われて捕まえられてしまった。船員の中には殺された者や逃亡した者もおり、90人余りは熱病にかかって死亡した。広成ら四人だけが死を免れ、コンロン王に会うことができた。そこで食料を与えられたが、悪所に安置された。

735年に唐の欽州に住んでいるコンロン人がやってきて、彼の便宜を得て船に載せられてひそかに出国し、唐に帰った。留学生の阿倍仲麻呂のつてで、唐の朝廷に渤海経由で帰国したい旨を申請したところ、皇帝はこれを許可し、船と食料を与えて出発させた。738年3月に登州から船出し、5月に渤海の領域に到った。すると、ちょうど渤海王の大欽茂も日本に使者を派遣しようとしているところだったので、渤海の船とともに出発した。航海中に渤海の一船が浪によって転覆し、大使ら40人が溺死した。広成は残った人々を指揮して出羽国に到着した。

解説
当時の船は船底が平底で、まるで箱が海に浮いているようなものでした。ですから浪が受けるとあっけなく沈んでしまいました。八世紀の遣唐使のうち全ての船が往復できたのは、なんとたった一回だけというから驚きです。遣唐使船が四隻なのは、どれか一つでも中国に着くためだったのです。遣唐大使に任命されても嫌がって拒否する人もいたそうです。まさに命がけの留学だったんですね。ちなみに出典は「続日本紀」です。

遣唐使の廃止
原文
諸公卿をして遣唐使の進止を議定せしめむことを請ふの状

右、臣某、謹みて在唐の僧中灌(ちゅうかん)、去年三月商客王訥(おうとつ)等に附して到る所の録記を案ずるに、大唐の凋弊(ちょうへい)、之を載すること具(つぶさ)なり。・・・・・臣等伏して旧記を検(けみ)するに、度々の使等、或は海を渡りて命に堪へざりし者有り、或は賊に遭ひて遂に身を亡ぼせし者有り。唯だ、未だ唐に至りて難阻飢寒の悲しみ有りしことを見ず。中灌の申報(しんぽう)する所の如くむば、未然の事、推して知るべし。臣等伏して願はくは、中灌の録記の状を以て、遍(あまね)く公卿・博士に下し、詳(つまび)らかに其の可否を定められむことを。国の大事にして、独り身の為めのみにあらず。且(しばら)く款誠(かんせい)を陳べ、伏して処分を請ふ。謹みて言(もう)す。

寛平六年九月十四日 大使参議勘解由次官(かげゆのすけ)従四位下兼守左大弁行式部権大輔 春宮亮(とうぐうのすけ)菅原朝臣某

臣某:この奏状を出した菅原道真のこと  商客:商人  款誠:まごころ  大使:遣唐大使


諸公卿に遣唐使の存廃を論議させることを願う書状

右の事柄について申し上げます。在唐中の僧中灌が昨年の三月に商人の王訥らに託して送ってきた記録を見ましたところ、唐の国力衰退の様子が詳しく書かれていました。・・・・・過去の記録を調べてみますと、度々の遣唐使の中には、渡航して任務を果たせなかった者や、賊に襲われて身を亡ぼす者はおりましたが、唐に到着してから旅行の困難や寒さにみまわれた者はおりませんでした。中灌の報告の通りとするならば、これから遣唐使にどのような危険が生じるかしれません。どうか中灌の記録をひろく公卿・博士に下布して、遣唐使の可否を事細かに審議するよう願います。国家の大事のために申しているのであって、(遣唐使に任命された)自分の身の安全のために申しているのではありません。私の誠心を披露して処置を求めます。以上謹んで申し上げます。

解説
ここでは渡航の危険と唐の衰退を挙げていますが、おそらくそれだけではなかったと思います。莫大な費用がかかる遣唐使を派遣するには、財政が窮乏していたこと、民間での交流が盛んになり、あえて政府がする必要もなくなってきたこと、などがありました。
ちょっと怪しいのはこの文書は、自分が遣唐大使に任命されてから提出したもので、なんでもっと早く提出しないんだ、ということです。やっぱり自分の身が可愛かったから・・・かも知れませんね(^^; でも遣唐使にはもう意味が無くなっていたので、いずれは廃止されたでしょう。出典は「菅家文草」。

遣唐使一覧

年代使節備考
630 出
632 帰
犬上御田鍬(帰)僧旻
653 出
654 帰
吉士 長丹
高田根麻呂
 
654 出
655 帰
高向 玄理 高向 玄理、唐で死亡
659 出
661 帰
坂合部石布 長安で一時抑留
665 出
667 帰
守 大石  
669 出
 ? 帰
河内 鯨 帰朝不確実
702 出
704 帰
粟田 真人  
717 出
718 帰
多治比県守 (行)阿倍仲麻呂・吉備真備・玄肪
733 出
734 帰
736 〃
多治比広成 (帰)真備・玄肪
10 752 出
753 帰
754 〃
藤原 清河
吉備 真備
藤原清河漂流
鑑真渡来
11 759 出
761 帰
高 元度 清河の帰国を目的
12761 中止
13762 中止
14 777 出
778 帰
小野 石根  
15 779 出
782 帰
布施 清直 唐使節送還を目的
16 804 出
805 帰
藤原葛野麿 (行)橘逸勢・最澄・空海
17 838 出
839 帰
藤原 常嗣 使節小野簀の不服 (行)円仁
18 894 菅原 道真 遣唐使廃止


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