編者序文 一ノ風
 基本方針としまして、ここに載せる資料には資料的価値よりも、内容と実質を知ることを目的としたいと思います。 そう言うわけで、歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに改めました。 読みにくい漢字にも括弧をつけて読み方を併記してあります。 編者の判断で部分的に読みやすいように変えてあり、多少原文と違う書き方の箇所もあります。(原文はかな混じりの漢文です)  
引用は自由にしていただいて結構です。

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日本国米利堅合衆国和親条約
安政元年(嘉永7年) 甲寅3月3日(西暦1854年3月30日)、神奈川に於いて調印
安政2年乙卯正月5日(西暦1855年2月20日)、下田に於いて批准書交換



亜墨利加(アメリカ)合衆国と帝国日本両国の人民誠実不朽の親睦を取り結び、両国人民の交親を旨とし、 向後箇条守るべく相立ち候ため合衆国より全権マテユカルブレトヘルリ(原文ママ:現代風にいうとマシュ―・カルブレイス・ペリー) を日本に差し起こし、日本君主よりは全権林大学頭、井戸対馬守、井沢美作守、鵜殿民部少輔を差し遣わし、 勅諭を信じて双方左の通り取り極め候


第一ヶ条一、日本国と合衆国とは其の人民永世不朽の和親を取り結び場所人柄の差別之無き事
第二ヶ条一、伊豆下田、蝦夷地箱館の両港は日本政府に於いて、亜墨利加船薪水食料欠乏の品を日本人にて調べ候丈は給し候為め渡来の儀差し免し候、尤(もっと)も下田港は約定書面調印の上即時相開き、 箱舘は来年三月より相始め候事
第三ヶ条一、合衆国の船日本海浜漂着の時扶助致し其の漂民を下田又は箱舘に護送し、 本国の者受け取るべく申し所持の品物も同様に致すべく候。尤も漂民諸雑費は両国互いに同様の事故償うに及ばず候事
第四ヶ条一、漂着或いは渡来の人民取り扱いの儀は他国同様緩優に有り、これ閉籠候儀致すまじくながら併せて正直の法度には服従致し候事
第五ヶ条一、合衆国の漂民其の他の者共当分下田箱舘逗留中、長崎に於いて唐和蘭(オランダ)人同様閉籠窮屈の取り扱い之無く、下田港内の小島周り凡そ八里の内は勝手に徘徊致し箱舘港の儀は追って取り極め候事
第六ヶ条一、必要の品物其の外相叶うべき事は双方談判の上取り極め候事
第七ヶ条一、合衆国の船右両港に渡来の時金銀銭並びに品物を以って入用の品相調べ候を差し免し候。尤も日本政府の規定に相従い申すべく且つ合衆国の船より差し出し候品物を日本人好まずして差し返し候時は受け取り申すべき事
第八ヶ条一、薪水食料並びに欠乏の品求むる時には其の地の役人にて取り扱いすべく私に取り扱いすべからざる事
第九ヶ条一、日本政府外国人へ当節亜墨利加人へ差し許さず候廉(かど)相許し候節は亜墨利加人へも同様差し許し申すべく右に付き談判猶余り致さず候事
第十ヶ条一、合衆国の船若し難風に逢わざる時は下田箱舘両港の外猥(みだ)りに渡来致さず候事
第十一カ条一、両国政府に於いて拠り無き事有りの候時は模様に寄り合衆国官吏の者下田に差し置き候儀も之有るべし。尤も約定調印より十八箇月後に之無き候ては其の儀及ばず候事
第十二ヶ条一、今般の約定相定め候上は両国の者堅く相守り申すべし。尤も合衆国に於いて長公会大臣と評議一定の後書を日本大君に致し此事今よりあと十八箇月を過ぎずして君主許容の約定取り換せ候事

右の条、日本国亜墨利加両国の全権調印せしむるものなり

嘉永七年 三月 三日    


1854年3月30日      


林   大学頭  花押

井戸  対馬守  花押

伊沢  美作守  花押

マツゼウ、カルブレズ、ペルリ  手記







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