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日本の通貨史
〜古代から中世の銭貨の意義〜
by AK



1.はじめに

 日本の通貨の歴史は、教科書にもその変遷が記載され、大抵の人なら「最初の日本貨幣は?」と問えば「和同開珎」と答えられるほど、日本の歴史事項の中でもメジャーであるといえよう。そして多くの概説書によって詳しく述べられている。よって本稿では、その変遷は他の優れた著作に譲り、古代の、特に「和同開珎」と、中世の「輸入銭」のもつ意義や問題に焦点を当てていきたい


2.通貨前史

 日本の通貨史は教科書などにも記載されているように、和銅元(708)年の和同開珎をもって幕開けとする説が定説となっている。たが、流通した「通貨」ではなく、単純に「貨幣」を視野に入れた場合、実際の様相は違ってくる。
1986年、奈良平城京跡右京八条一坊に有った井戸跡から、「富」「本」の二字が入った一枚の貨幣(以下、富本銭と呼ぶ)が発見された。このような吉祥句が入った貨幣は通常「厭勝銭(えんしょうせん)」と呼ばれ、中国などでも「君宣侯王(君、侯王に宜し)」という文言の入った、漢代の五銖銭など多数が知られている。これら厭勝銭は、埋葬の際の副葬品とされたり、新婚の儀式の際に播かれたりと、まじない的な使用をされている。
この富本銭は、さらにもう二枚が平城京に先行する、藤原京の遺構から発見されているのだが、その内の一枚は、右京一条一坊の溝から発見され、この溝が一緒に埋まっていた土器などから、平壌京遷都時には埋まっていたことが推測されている。もう一枚は、奈良県桜井市の大福遺跡から出土している。この遺跡は「大藤原京」と通称されている街割に沿って溝跡であり、この溝が使用されていたのも下限は八世初めまでである。

 このように、奈良時代には厭勝銭が存在していたことが確認でき、それが和同開珎と同時期、もしくは先行するかもしれないのである。さらに、この富本銭の輸入の可能性であるが、「富」「本」の二字か入った厭勝銭は中国や朝鮮半島では発見されていないという。こういったことから、日本における貨幣は、この富本銭 − 厭勝銭 − の使用から始まる可能性が非常に大きい。そして鋳造で、ある程度の量産をしていたことを考え合わせれば、『日本書紀』持統天皇八(694)年、同書文武天皇三(699)年の「鋳銭司」に関する記述に対する解釈は、大きく変わってこよう。


3.和同開珎

 和同開珎は前述の如く、日本で最初に経済的目的から鋳造された貨幣 − 通貨 −である。この和同開珎の流通には、これも有名な「蓄銭叙位令」をセットに考えるべきであるが、その前になぜ和同開珎が鋳造されたのかを考えてみたい。
和同開珎は、慶雲五(708)年に武蔵国秩父評(現、埼玉県秩父郡)から「和銅」が献上されたことにより、元明天皇が和銅と改元し、あわせて銭貨の鋳造を命じたと結果作られたものであると言われている。しかし、最初に登場した和同開珎は、銀銭であった。ということは、「和銅」の献上はあくまで「きっかけ」を与えたことに過ぎぬであろう。
では和同開珎はなぜ、鋳造されたか……それは端的に言えば、労働力の調達と言う点にあると考えられる。当然、律令制度の整備の一環としても考えられるのだが、当時のより具体的な現実的な問題として、平城京遷都に必要な物資と労働力の調達があり、その決済方法が、それまで庶民(当時の言葉をかりれば[百姓(ひゃくせい)])が目にしたことのない「貨幣」であったのである。

 東洋(中国文化圏)における貨幣は、額面(価値)に対し、その地金の品位や量目はそれほど重要ではなく、その素材は銅を中心として錫・鉛が配合されている(明朝後期は、真鍮製が中心となる)。また鋳造という貨幣製造法は、その品位を一定に保つためには不向きな製造法であるとされる。西洋の貨幣は、その地金の価値によって裏付けられており、その素材は金・銀といった貴金属が中心である。品位・量目が価値の裏付けとなるため、一定品位の地金から定量を切り出し鍛造して製造する。
見方を変えれば、東洋の貨幣はその政府の信用・強制力によって通用する「名目貨幣」であるといえ、それが同一額面貨幣の度重なる改鋳(改悪)を可能にし、出目(地金の含有量を減らすことにより出る利益)が政府(発行者)の利益となるのである。

 和同開珎も同様に、地金以上の価値を与えられ発行されたため、発行後すぐに贋作者が横行している。これは百姓はいざ知らず、少なくとも支配者階級においては、貨幣の経済的価値が認識されていたことを示すであろう。また、銅銭に先立って発行された銀銭が、すぐさま発行停止となったのも、贋作による[利益]が銅銭のそれよりも大く、かつ鉛等による贋作が容易であったためと言われる。
他方で、貨幣を労働力・資材の代価として朝廷が支払ったとしても、百姓がそれを使う道がなければ意味がない。当時の社会はやはり物々交換が基本であり、いかに貨幣に経済的価値があろうとも、受け取る側が拒否したのでは用をなさない。そこで発布されたのが和銅四(711)年の「蓄銭叙位令」である。貨幣の集蓄量に応じて叙位するこの法令は、 一見、大量の貨幣の退蔵を招きそうであるが、叙位の条件として、蓄銭を朝廷に差し出すことになっていた。また蓄銭側にとっては物資を銭と交換(=売却)せねば和同開珎を集蓄することはできない。「蓄銭叙位令」によってこのような、朝廷→百姓→支配階級(豪族・貴族・寺社)→朝廷という図式ができあがり、和同開珎は環流することになるのである。 

 以上をまとめれば、和同開珎の発行と流通に関して、朝廷側がかなりの企図をもって望んでいたことは明白である。そしてそれは、少なくとも朝廷など支配者階級の、ある程度の経済的認識の上で行われたのである。


4.中世輸入銭

 和同開珎のあと、律令国家によって発行された「皇朝十二銭」は、新貨が発行された場合、原則旧貨の十倍通用であった。また、その素材も基本三素材である銅・錫・鉛のうち、鉛の比率が多いものであったため、価値の暴落を招き、結果として貨幣の流通を阻害する結果となってしまった。

 貨幣が日本史上爆発的に普及するのは、やはり中世に入ってからのことである。農工業技術の発展により、商品としての生産物の余剰が生まれた結果、貨幣の流通する条件が整ってきたことと、北宋帝国の大量且つ良質な銅銭を輸入できたためである。
十一世紀では、宋銭を私鋳銭と見なし、その流通を停止させる命令がたびたび朝廷から発せられていたが、十二世紀中頃からの土地売券などの記載に、代金を[銭]で支払ったものが 現れ始め、ついで十三世紀後半には、年貢をそれまでの各種産物に代わって銭で納める[代銭納]も一般化している。このような現象が起きるには、それ相応の量の貨幣が輸入され、流通し、社会的に認知されて行かねばなるまい。北宋帝国のピーク時の銅銭製造量は年間六十億枚と言われており、南宋・元代に至っても中国で使用され続けている。一方、日本側の輸入は、一回の貿易船で数百万枚単位もの銅銭を持ち帰っており、この大量安定発行のもと、数多くの貿易船によって莫大な数量の宋銭が日本国内に流入した。
明朝の成立後、洪武銭・永楽銭・宣徳銭などか次々と発行されていった。しかしこれら明銭が、すぐに日本側に受け入れられていったわけではない。足利義満が洪武銭などの明銭ではなく、わざわざ宋銭を希望している事実がそれを端的に物語っている。のちに永楽銭が[永高]という、田畑の生産力をその貫数で表すようになるほど、良質であり広く普及するのであるが、当初はむしろ悪銭として認識されていた感がある。特に永楽銭にその傾向が強く、その点については十分な説明がまだなされていない。

 銅銭輸入に関して注意すべきなのは、宋・元・明などので発行された貨幣すべてが輸入されたのではない、という点である。中国においては、一文銭の他に「当三文」「当五文」「当十文」などという、「大銭」と呼ばれる貨幣(日本の江戸時代の天保銭のようなもの)が発行されている。また、金・銀貨が発行されていないので、高額な額面を持つ紙幣が発行されている。さらには、財政状況の悪化によって、安価な鉄製の貨幣や、大量の銅銭の国外流出が原因で銅資源が枯渇し、真鍮製の貨幣までもが発行されているのである。しかし、これらの貨幣が日本に輸入されていた形跡はない。このことから、輸入に際して「撰銭」されていた可能性が強い。すべての貨幣体系を無条件に受け入れていたのではないのである。
それからもう一点注意すべきことは、中国銭があくまで[貿易品目の一つ]として輸入されていた点である。中国銭は貿易の決済に使用されていたわけではなく、輸入代金として日本から支払われたり、輸出代金として中国側から支払われたものではないのである。
一方で、これらの中国銭が日本に与えた影響に目を転じれば、間断なく流入する宋銭・明銭のおかけで、日本は貨幣経済へ移行したと言える。前述の如く土地の生産高を銭の単位である[貫]で表す貫高制、殊に永楽銭で表す永高制の普及が、それを如実に物語っている特に永楽銭が基準となる問題は、撰銭と合わせて論じるべきであるが、ここでは割愛する。また大量の貨幣必要とする現金決済から為替が発展し、また土倉・酒屋、頼母子などの金融業者が発達していくのは、周知の事実であるが、この点も多く論じられているので、敢えて割愛する。)。


5.おわりに

 以上、古代の通貨・中世の通貨の歴史を、その意義から考察した。中世の通貨については、勘合貿易を含めて、もう少し深く掘り下げる必要があるのだが、ここでは、足利幕府による勘合貿易の独占とそれにる「中国銭の輸入独占」は、形を変えた貨幣発行権の独占である可能性があることを、また未解明の大量の埋納銭の問題があることを、指摘しておくことにとどめる。


[参考文献]

東野治之『貨幣の日本史』朝日選書574、朝日新聞社、1997。

佐藤進一『日本の中世国家』、岩波書店、1983。

吉田孝『古代国家の歩み』「大系日本の歴史3」、小学館、1988。(後に同小学館ライブラリー1003、1992、として改版)

壇上寛『永楽帝』講談社選書メチエ119、講談社、1997。

(1998年9月8日   AK)

支部長注 この文章はAK氏が大目録試験の解答として送ってきたのですが、私の予想を遥かに越えて素晴らしかったため、ここに掲載することにしました。大目録試験は別にここまでしなくてもいいんですが(^^;
うーん、お見事。













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