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7世紀後半の東アジア情勢・年表風
by AK



7世紀後半の東アジア諸国は、随・唐帝国の文化的影響を摂取し、また軍事的脅威を受けつつ、それぞれの国家基盤を強化していった時期であります。この時期、倭は大化改新・白村江の戦い・壬申の乱という大きな事件を体験していますが、これらの事件は、当時の国際関係抜きにしては語れないものです。そこで、それぞれの事件については詳説は優れた研究の任せるとこにし、ここでは年表風に事件を追っていくことにしました。
 じっくり読めば、諸国の微妙な駆け引きがチラチラ見えてくると思います。

642年百済の義慈王、新羅に侵入。新羅、金春秋(後の武烈王)を高句麗に派遣し援助を求めるも抑留され、からくも脱出。
高句麗宰相・泉蓋蘇文、国王大臣以下百余人を惨殺し、権力を掌握。百済と結んで新羅に攻撃開始。
645年5月冊封体制の宗主として、唐の太宗、重臣の諫めを振り切り高句麗征討開始。
646年6月中大兄皇子、高句麗・百済・新羅の朝貢の儀式と偽り、蘇我入鹿を板葺宮に呼び出し、惨殺。
646年7月上記三国の朝貢の儀式を行い、百済に対し「任那の調」を納めることを要求するが、失敗か。
647年7月国博士・高向玄理を新羅に派遣、「質」を差し出させることを条件に「任那の調」を廃止。新羅、金春秋を質として倭に派遣。
648年春金春秋、新羅に帰国。唐に赴く。
649年金春秋、唐より帰国。新羅の服制を唐の服制に改め、唐の年号を採用。唐の属国化。
653年倭、吉士長丹・道昭ら遣唐使[第二回]として派遣。
654年倭、高向玄理を遣唐使[第三回]として派遣。
655年高句麗・百済が連合して新羅北部に進入。新羅、唐に救援を要請し、唐、応えて高句麗に出兵するも頑強な抵抗に合う。
659年新羅、百済の征討を唐に要請。高句麗を孤立させるに有利と判断した唐、百済征討に乗り出す。
倭、坂合部石布を遣唐使[第四回]として派遣。
660年3月唐の高宗、水陸13万の大軍をもって百済を攻撃、新羅の武烈王、将軍、金[广臾(ゆ)]信に5万の兵を与え百済に進攻さす。これにより百済の義慈王降服し、百済滅亡。
唐が主力を高句麗に転じさせた間、百済の遺臣、倭に使者を派遣し、援軍の派遣と人質として倭にいた百済王族・餘豊璋の送還を要請、倭、詔して救援の決意を使者に伝える。
661年1月斉明天皇、難波を出発し筑紫へ向かう。
8月救援軍編成、餘豊璋を百済に送還。
662年餘豊璋、百済王として即位。百済復興軍、勢いづく。
663年8月白村江の戦。倭・百済軍、唐・新羅連合軍に敗退。豊璋、高句麗へ亡命。
唐、新羅に鶏林都護府を置き、新羅王を鶏林州大都督に任じ、新羅の属領化を図る。
664年唐、捕虜とした百済太子を熊津都督として百済故地に帰し、鎮将・劉仁願の立ち会いのもと、新羅王弟と和親を誓わせる。劉仁願、郭務[淙(AK注:正しくは立心扁だが文字がないために代用)]を倭に派遣、倭の朝廷、「天子の使人」でないと言う理由で追い返す。
665年唐、新羅の文武王に百済旧太子・隆との和親を勧め、文武王、熊津に赴き和親を誓い合う。唐、正式に劉高徳・郭務[淙]を倭に派遣、倭、守大石を遣唐使[第五回]として派遣。
666年末唐、高句麗北部に侵攻。
667年7月唐、新羅に高句麗へ出兵を命じ、新羅、平壌へ向って進撃。
11月唐の百済鎮将・劉仁願、遣唐使・守大石の送使を兼ねて筑紫に使者を派遣。
668年中大兄皇子即位。高句麗、倭に使者を派遣するも倭は動かず。唐・新羅連合軍、高句麗王都・平壌を陥落させ、高句麗滅亡。唐、平壌に安東都護府を置く。新羅、倭に金東厳を遣使、天智天皇、新羅王に絹50匹・綿500斤・韋(なめしがわ)100枚を回賜。
669年倭、河内鯨を高句麗平定の祝賀使兼、遣唐使[第六回]として派遣。
670年高句麗遺臣・鉗牟岑、故国復興のために唐に反乱、新羅これに2万の兵を送り援助し、唐と敵対関係に入る。新羅、旧百済領へ侵攻開始。
671年1月唐使・李守真、倭に渡来、7月帰国。
7月新羅、百済旧都・泗-w城を陥落させ、所夫里州を置く。
9月天智天皇、病床につき、大海人皇子出家し吉野へ。
10月新羅、倭に金万物を遣使、朝廷、新羅王に絹50匹・あしぎぬ50匹・綿1000斤・韋100枚を回賜。
11月唐の郭務[淙]ら600人と、送使・沙宅孫登ら1400人、計2000人が47隻の大型船で旧百済領から倭に進発。先触れとして白村江での捕虜、筑紫君薩野馬ら四人を対馬に派遣し、来朝の意を伝えさせる。
12月天智天皇崩ず。
672年3月朝廷、筑紫に使者を派遣し、郭務[淙]らに天智天皇の喪を伝える。郭務[淙]、二度目の国書奉呈。
5月朝廷、郭務[淙]らに甲冑・弓矢・あしぎぬ1673匹・布2852端・綿666斤を与える。郭ら帰国。
6月大海人皇子、吉野を脱出し挙兵、不破の関を占拠し壬申の乱勃発。
7月大海人皇子軍、近江宮を占拠し、大友皇子自殺。壬申の乱終結。
673年2月大海人皇子、飛鳥浄御原宮にて即位。
新羅、倭に賀騰極使(大海人の即位を賀す使)と弔送使(天智天皇の喪を弔う使)を遣使。天武天皇、賀騰極使のみ入京させ、弔送使は帰らす。
675年新羅、旧高句麗領に侵攻開始。
676年新羅、平壌を陥落させ半島統一に成功。唐、安東都護府を遼東に後退させ、朝鮮半島を放棄。
686年唐、旧高句麗王族の一人を遼東都督朝鮮群王に任じ、遼東半島に封ず。
696年契丹人・李尽忠旧高句麗領内で反乱を起こす。
698年頃大祚栄、旧高句麗領内に辰(後の渤海)を建国。

【ちょっと解説】
白村江の戦いの後でも、倭と唐、倭と新羅の関係が意外に円満なことがわかると思います。唐による白村江への出兵は、あくまで対高句麗作戦の一環であり、倭の出兵理由は、百済の救援でした。ですから、互いに怨恨をもって戦争したわけではありません。唐は対高句麗作戦の上から、百済滅亡後の南朝鮮地域における安定を望んでおり、倭としても国内の基盤強化のために絶好の機会であったわけです。また、新羅は唐による属領化に反発し、そのため返って倭に接近してきています。
 新羅が朝鮮半島統一に向けて動き出し、唐軍が苦境に立ち出すと、唐は白村江のでの倭人捕虜1400人を返還し(671年の郭務[淙]の渡来)、逆に援兵もしくは援助を引き出そうとしています。このような情勢の中で、倭は壬申の乱を克服し、集権体制へ踏み出したのであり、唐は別として、東アジア諸国の中で比較的優位な位置を占めることができたのです。8世紀に、渤海が唐や新羅に対抗する軍事的目的のため、日本に遣使してくるのも、同じような流れと見ることができます。

【参考文献】
直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』(講談社学術文庫845)、講談社、1988。
吉田 孝 『古代国家の歩み』(「大系日本の歴史」3巻)、小学館、1992。
吉田 孝 『日本の誕生』(岩波新書・赤版510)、岩波書店、1997。
上田 雄 『渤海国の謎』(講談社現代選書1104)、講談社、1992。

(1998年10月10日   AK)













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