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文字の歴史は生の歴史ではないのか?
−井村氏の見解に寄せて−
文/ぶう


 井村氏の論「生の歴史にふれることの重要性」を読ませていただいた。
 筆者は、氏の見解は概ね妥当なものと考える。文字史料だけではイメージが湧かない。埋蔵文化財をはじめとした「非文字資料(氏が「史料」と述べているもの)」は、生々しい歴史の一片をわれわれに伝えてくれる。文字史料だけでは、歴史の真実は見えてはこない。

 ただ、氏の見解を拝見していると、あまりにも文字史料を軽視(あるいは誤解)してはいないか、という懸念を感じざるを得ない。
 文字史料とは、3種類に分けられる。一つは「編纂物」。氏が「書物」と述べているのはこのことかと思われるが、これは、後世の人物が、それ以前の歴史をさかのぼって著述するというものである。例を挙げるなら「日本書紀」や、中国の「三国志」「史記」等であろう。これは(多くの場合は)特定の意図をもって書かれ、前の年代のことがらを記録に頼って記述するため、必ずしも全てが史実であるとは言えない。これは氏のご指摘の通りである。
 二つ目には「記録」。いわゆる日記のことである。代表的なものとしては、藤原道長の「御堂関白記」や、藤原実資の「小右記」が挙げられる。これは編纂物とは違い、同時代の人物によって記述されるものであるから、内容が事実である可能性は、編纂物よりは高くなる。しかし、その作者の立場、主観、記述されたことがらの伝わり方(実際に見たのか、それとも伝聞で知ったのかなど)に応じて、記述=事実とするのをはばかられる場合があろう。しかしこれも同時代史料であり、生の歴史を伝えるものであるといえよう。
 三つ目は「文書」。奈良東大寺の正倉院に伝来した「正倉院文書」、先頃国宝に指定された「東寺百合文書」などの文書群が著名である。文書とは、差出人の意志を受取人に伝えるという目的で書かれたものである。言うまでもなくその時代を生きた当事者の手になる文字史料であり、そこには厳然たる事実が横たわっているのである。偽文書というものも存在しないわけではないが、文書の様式などを突き詰めていけば、それが偽文書だというのは判断できないわけではない。最近遺跡等から出土する木簡にも、文書木簡と呼ばれる種類のものがある。これらも、生の史料として非常に価値の高いものであるのは言うまでもない。

 以上のことをふまえると、必ずしも文字の史料が生の歴史を伝えないという訳ではないことがおわかりいただけると思う。
 さらに非文字史料(ここでは特に埋蔵文化財について言及する)を盲目的に過信するのも、若干の問題がある。それは、考古資料とそれを見る人々との間に、埋蔵文化財を発掘する担当者やそれを伝えるマスコミの存在があるからである。
 考古学は、確かに文字史料では知り得ない歴史の一片を伝えてくれる、大変貴重なものである。しかし、発掘によって姿を現した遺跡に対する評価を与えるのは、発掘を担当した人間である。仮に担当者の解釈に問題があっても、それは歴史的事実として、世間に公表されるのである。また、考古学の方法というのは、「〜あるべきだ」「〜でなければ説明がつかない」といった、状況証拠を重ねていく手法である。いかようにでも解釈ができる方法だからこそいわゆる定説がコロッとひっくり返ったり、「諸説乱れ飛ぶ」という状況を呈したりするのである。逆説的な言い方をするなら、考古学は史実に限りなく近づくが、史実を伝えていないという言い方もできようか(新たな考古資料の発見によって、史実がひっくり返るから)。そういう意味では、はっきりと事実を文字で記す文書などの方が、史実を伝えているという言い方もできよう。

 また、新たな遺跡の発掘は、報道機関によって人々に知らされることになる。それは非常に重要なことなのであるが、えてしてマスコミというものは、興味本位にものごとを書く傾向がある。例えば、九州北部や近畿地方で弥生時代末期〜古墳時代初頭(これに関しても実年代は研究者によってまちまちである)の大集落が発見されると、「邪馬台国か?」と騒ぎ立てる。明らかに事実誤認の記事もあると聞く。そのようなフィルターを通して、必ずしも正しい歴史像が伝わるとは思えない。

 以上、つたない文章を書き連ねてきたが、筆者がこの文章を書いたのは、井村氏の見解に、文字史料に対する誤解があったのを少しでも解きたいと思ったからである。
だだ、氏も述べているように、文字史料だけによって歴史を考えるのは片手落ちであって、考古資料も重要である。この両者(さらには文学・地理学・民俗学等の成果も併せて)によって、はじめて史実が解明するのである。この点を強調し、読者諸賢のご批判・ご叱正をお願いして、拙論を終わらせていただく。











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