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西洋史概説・スペイン編
by エスメラルダ




第一回 太陽の没しない国、スペイン

十五世紀、ヨーロッパ人はルネサンス最盛期を迎え、その生活の充実を求めるようになった。
ルネサンスが末期に近づいてくると、人々の未知の世界へ挑もうとする心はどんどん高まり、ヨーロッパの外へと噴出する(新航路や新大陸の発見に象徴されている)。
新大陸が発見され、インド航路が確立されると、人々は香料貿易にハマった。(表現力が…)
ドイツの地理学者で、ポルトガル王に招聘されて活躍したマルティン=べハイムによると、香料が消費者の手に届くまでには、十二人以上の商人の手を経ていると言う。
《それらの商人が暴利をむさぼっただけでなく、港に着くたびに土候がピン撥ねをする。途中、船は嵐のために何隻かに一隻の割合で沈没し、荷物めがけて海賊が襲いかかる。それらの損害が消費者に転嫁されて、売り値にこめられた…》
原産地ではタダ同様だった香料は、消費者の手に渡るときには銀と等価にまでなっていった、ということである。

この大航海時代に最も活躍したのが、スペインとポルトガルである。この二国のうちでどちらか、と言われれば、もちろんスペインであろう(ポルトガルは1580年にスペインに併合されている)。
それは、「太陽の没しない国」という当時の形容からもはっきりと分かる。
1516年、ハプスブルク家のカルロス一世がスペイン王に即位した。彼は1519年の神聖ローマ皇帝選挙でフランス王のフランソワ一世と争い、これに勝って神聖ローマ皇帝も継承した。
だが、彼はネーデルランドの生まれであった。彼は、スペインよりもまず、ハプスブルク家の利益を重視した。そのため、ヨーロッパの経済活動の中心は、アジアの貿易を独占していたリスボンでもなく、新大陸からの船が往来して賑わうセビリャでもなく、アントワープをはじめとするネーデルランドであった。
カルロスの後を継いだのは、フェリペ二世であった。彼のもと、スペインは最盛期を迎える。スペイン史での黄金時代とは、だいたい1550年から1680年ころまでのことを言う。

「スペインが動けば、世界は震える」という格言は、まさにこの頃のスペインにふさわしい名だった。
1571年のレパント海戦などは、最盛期の象徴でもあった。
フェリペは、統治の中心をスペインに戻した。二十年の歳月をかけてエル=エスコレアルの地に歴代王の墓地と宮殿をかねる大建築を行った。スペインに、まさしく絶対王政の象徴である宮廷生活が出現した。
フェリペは、政治活動の拠点をスペイン本土に戻すことによって、毛織物業で栄えたネーデルランドを徹底的に絞り上げようとした。ネーデルランドの人々が、これを黙って見過ごすはずはなかった。
1581年、北部七州は、ネーデルランド連邦共和国の独立を宣言したのである。
さらに、これまで追従してきたイギリスが、スペインに刃向かうようになった。オランダの独立戦争に力を貸していたのだ。フェリペは、即座にイギリス本土上陸計画を画策した。
無敵艦隊は、戦艦130隻に船員8000、陸軍20000が乗り込んでおり、さらに途中ネーデルランドに寄港してパルマ公の率いる精鋭30000をイギリスに上陸させる計画であった。
イギリスは、これを黙って見守ってはいなかった。フランシス=ドレークは、わざかな船団でスペイン海軍に殴り込み、その輸送船団に打撃を与えた。
無敵艦隊とイギリス艦隊は、ドーバー海峡で相見えた。敵の疲れを待って一気に攻勢に出たイギリス軍の圧勝だった。スペイン軍の戦死者4000、イギリス軍はわずか100だった。
無敵艦隊の敗北はヨーロッパ中に大きな衝撃を与えたが、それでスペインが不利になったと言うわけではなかった。しかし、スペインはこの海戦を境に衰退していく。
スペインは、反宗教改革の中心であった。プロテスタントが、イギリス軍の勝利に歓呼の声を上げたのだ。スペインは決して神の選びたもうた器ではなかったのだ、と。
スペインの威信の失墜は、もはや取り返すことは不可能であった。












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