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西洋史概説 第三回
三十年戦争の幕開け

by エスメラルダ



現在こそ先進国の一つであるドイツだが、17世紀当時は全くまとまりのない地域であった。神聖ローマ帝国というゆるいつながりこそ存在はしたが、実際は300ほどの小国家が乱立し、皇帝はその小国家の代表七人によって選ばれる制度があった。皇帝の位はハプスブルク家が握っていたが、当然ながら皇帝はハプスブルク家の利益を重視していた。

こんな中、ドイツはルターらによって宗教改革の舞台となった。その宗教改革から生じた宗教戦争は、1555年のアウグスブルク会議によって、一旦は収まったかに見えた。だが、それはその場しのぎに過ぎなかった。
それには三つの問題点があった。

まず、「治めるものの宗教がその地の宗教」という原則であり、一般の人々は君主や都市の所有者の決めた宗派を信仰する事を強制された。
次に、宗教領保留の条項だ。要するに、帝国の直属の聖職者が新教に改宗した場合、その領地は旧教側に保留される、ということである。
最後に、和議の際、新教側はルター派だけが問題とされており、カルヴァン派が取り上げられなかった事である。

旧教側ではイエズス会が世界的な規模で失地回復の伝道を行った。いっぽうカルヴァン派も出発こそ遅れたものの、侮れない勢力を築いていた。

すると、ドイツだけでなく、周りの国々も興味を示しはじめた。
フランスでは、スペインとオーストリアの挟み撃ちとなっている現状の打破を求めた。
北のデンマークとスウェーデンは、新教国であったため、ドイツの情勢をはらはら見ていた。
イギリスも、エリザベス女王のもと、新教の旗色を強めていた。
スペインは旧教側の大国であったから、この問題を無視するわけにはいかなかった。

新教側と旧教側の対立は、何度となく生まれ、これまでは妥協によって回避されていた。だが、ついにそれが爆発する時が来た。
1618年5月23日、神聖ローマ帝国南部のべーメン(ボヘミア)の首都プラハに武装したプロテスタント200名が押しかけ皇帝の顧問官にべーメン王の宗教弾圧に対して抗議し、激昂のあまり顧問官2人と秘書官を、窓の外に放り投げたのである。奇跡的にも3人は一命を取りとめたが、この事件が三十年戦争の発端となるのである。

べーメンの新教貴族は皇帝が差し向けた鎮圧軍を破ったものの、ファルツの選帝候からべーメン王となったばかりのフリードリヒが1620年に皇帝軍に敗れてしまい、新教連合は崩壊してしまった。
こうして30年戦争第一期は、旧教側の圧勝に終わったのである。

が、新教陣営の敗北を見て、新教諸国が動きを見せた。
デンマーク王クリスティアン四世は、イギリスに援助の約束を取り付けると、自らドイツへ攻め込んだ。
戦争が勃発していらい、どちらのサイドにしろ、主力となったのは傭兵隊であった。
当時の軍事維持費は自弁するのが当たり前で、住民に対しては宿舎や食料などの提供を命じられた。
そればかりか、敵からの戦利品の略奪は兵士の給料を補うとして、おおいに歓迎された。
当然、略奪の対象は一般市民に向けられた。

皇帝軍の危機を救ったのは、べーメンの旧教貴族・ヴァレンシュタインであった。自費でデンマークに対する兵を雇えなかった皇帝に、自分に皇帝軍の指揮権を任せてくれれば、自分の資金で軍隊を集めてみせる、と申し出たのである。他に方法もなかった皇帝は、ヴァレンシュタインの申し出にすがった。

ただちに2万4千の兵を集めた彼は、旧教連盟軍の名将・ティリと共にデンマークを迎え撃った。

クリスティアン四世のドイツ介入は、些か早計だった。まだ十分な援助がなく、協力する新教側の兵も少なかったのだ。新教側は皇帝軍と旧教連盟軍に徐々に兵力をそがれていっった。
しかも、連戦連勝を収めるヴァレンシュタインの軍勢は、いつのまにか10万もの大軍に膨れ上がっていた。
デンマークの敗色は決定的になり、1626年ティリがルッテルでデンマーク軍に壊滅的な打撃を与え、1629年、デンマークはホルシュタインの領有と引き換えに、ドイツへの介入をあきらめた。

皇帝の威光が久しぶりにとりもどされた。が皇帝は他の君主たちと何の相談もせず、復旧令を発布した。
旧教君主は新教徒を追放してもよい、などといった内容のものである。
新教君主はもちろん、旧教側からも非難の声が上がった。
そして、皇帝の強硬策の裏にはヴァレンシュタインの奴がいるに違いない、と考え、彼の免職を求める声が強まった。
最初は彼をかばっていた皇帝も、免職しないのならば、子供を皇帝に選挙する事は約束できないと脅されて、やむなく彼を追放した。

そんなことの直後、新教側には新たな動きが見え始めていた。
スウェーデン王グスタフ=アドルフ。人呼んで「北方の獅子王」。彼が、バルト海を越えて、この国際戦争に介入したのである。












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