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ペリクレスの家庭事情
by fano


古代アテネの歴史を書く上でもっとも重要な人物の一人、ペリクレス。紀元前5世紀に活躍したアテネの政治家です。彼の時代にアテネの民主政が完成し、もっともアテネが繁栄したので、ペリクレスの時代はアテネの黄金期といってもいいでしょう。ここでは彼の政治家としての力量ではなく、彼の家庭事情について詳しく書きます。ワイドショー感覚で楽しんでください。

ペリクレスの父、クサンティッポスは、アテネの政治家であり、あの有名なペルシア戦争の将軍の一人に選ばれていた有名な人物。母のアガリステはアテネ屈指の名門、アルクメオン家の出身。ペリクレスはまさにアテナイの政治家になるに十分な環境に生まれました。ちなみにアルクメオン家はアテネの名門中の名門で、かの改革者として有名なクレイステネスもアルクメオン家の出身です。 ペリクレスは政治家としてすばらしい業績を残しているわけですが、彼の家庭事情は複雑でした。

彼には妻との間に、2人の息子、長男クサンティッポス、次男パラロスがいました。しかし、彼は妻との折り合いが悪かったのか、離婚して、アスパシアという愛人と同棲生活を送ります。当時のギリシアでは一夫一婦制、奥さんをたくさん持つということはありえませんでした。

アスパシアという女性はギリシアのあらゆる女性の中で一番有名な人物といってもいいでしょう。彼女はミレトスという町の出身でアテネ人ではありませんでした。彼女はもともと遊女であって、その後、遊女を教育して娼館を経営していました。
当時の遊女といってもそれはさまざま、高級娼婦(ヘタイラ)から最も安い娼婦までいろいろですが、アスパシアはヘタイラの中でももっとも有名な人物でした。当時のヘタイラは高級になればなるほど、男たちの宴会に呼ばれ、男たちとともに政治の話、哲学の話などに加わり、会話によって男を楽しませる事が重要でした。だから、容姿が美しいということよりもむしろ、知性と教養が必要でした。アスパシアの元には多くの男たちが訪れ、そこは一種の文芸サロンであって、そこでは修辞学の授業さえ行われていたのです。あのソクラテスも弟子たちを連れてアスパシアのもとにかよい、常連客の中には彼女の話を聞かせいるために妻を連れてきた人もいたのです。
したがって、ソクラテスに弁論術を教えたのは彼女だの、ペリクレス演説の草稿を書いたのは彼女だの、彼女の知性についての逸話が数多くあります。まさに、古代ギリシア史上最高の才女でした。ペリクレスは彼女をとても愛していたようで、アスパシアが冒涜罪で訴えられたときには、法廷で彼女を涙ながらに弁護したこともありました。

当時の男性は自分の出世に都合の良い家の女性と結婚し、跡継ぎを儲け、家の外に気に入った愛人を作るということはよくありましたが、妻と離婚して愛人と同棲生活を送るということはアテネ市民を驚かせました。

ペリクレスは一つの生活の悩みがありました。それは長男のクサンティッポスでした。ペリクレスは家庭の経済においては合理的な倹約家でした。しかし息子のクサンティッポスはその妻とともに浪費家でした。クサンティッポスはペリクレスの名前でペリクレスの友人たちから借金をしたのでした。ペリクレスは息子の借金を返済せずに、その事を裁判沙汰にしたので、クサンティッポスはこれに怒って、父親の内緒の話をみんなに口外して回ったのです。そしてクサンティッポスは最後まで父をうらんで、疫病で死にました。

その後、もう一人の息子、パラロスも疫病で死にます。パラロスの死のときはいつもは冷静で決して取り乱すことの無かったペリクレスが、息子の遺体を花で飾り、人目も気にせず泣いたと伝えれています。息子たちの死後、彼の跡継ぎはいませんでした。ペリクレスにはアスパシアとの間にペリクレスという父親と同じ名前の息子がいました。しかし、ペリクレス自身が定めた市民権法に、「アテネ市民とアテネ市民から生まれた女性との正式な結婚によって生まれたものだけが、アテネ市民になれる。」という法律があったために、このペリクレス2世はアテネ市民になることができませんでした。しかし、アテネ市民はペリクレスの業績を考え、特別にこのペリクレス2世に市民権を与えました。その後、ペリクレス自身も疫病でこの世を去りました。

その後、このペリクレス2世はペロポネソス戦争に将軍として参加したとき、帰りに死亡した兵士の死体を回収しなかったとして、遺族から訴えられて、その他の将軍たちといっしょに死刑にされたのでした。こうしてペリクレスの血筋は絶えました。

ペリクレスは偉大な政治家であったとともに、当時のアテネ人のうわさの種であり、彼の私生活は話の種になりました。こうして彼の死後2000年以上たったあとにも伝えられているのです。


※ペリクレスの家庭事情について現在に伝える主な史料はプルタルコスのものですが、プルタルコスの書くペリクレス像が正確であったという証拠はないので、どこまでが真実なのか分かりません。












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