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大銀行家パシオン
by fano



古代ギリシアのポリスは一般的に閉鎖的な共同体であるといわれています。古代ギリシアでポリスの市民権はかぎられた人にしか与えられませんでした。したがって、奴隷はもちろんのこと、女性、庶子、外国人はけっして市民権を得ることはありませんでした。そしてこの条件は時代が下るにしたがって厳しくなっていきました。これは、次第に市民権を拡大したローマと対比されます。

ギリシアにおいて、市民権というのは、参政権であり、市民はポリス内にすむ在留外国人や解放奴隷、奴隷とは違った特権を持っていました。もちろん、反面、義務(戦争のときは従軍しなければならない)も負っていたわけです。

古代のアテネでは市民は、男性で、アテネ市民の父親とアテネ市民の家系出身の母から生まれた、嫡出子である事が必要でした。(「ペリクレスの家庭事情」のペリクレスの市民権法を参照)これに一つでも該当しなければ、市民権はないのです。市民権を得るだけの条件が整っていないのに、市民であるとうそをつくことは厳罰に処せられることでした。

このように一部の人々による民主政が、古代の民主政でした。市民権を得る条件が生まれながらによって決まり、そしてそれを変えることはできなかったのです。

今回は奴隷として生まれながら、銀行家となり、そして特別にアテネの市民権を得ることができた古代アテネでは非常に例外的な人物についてです。このギリシアで例外的な人物であるパシオンはもともと銀行家に仕える奴隷でした。その才能ゆえに、特別に解放され、そして、彼自身も銀行家に仕えていたときのノウハウを活かして銀行業に乗り出すのです。

古代の銀行業はどういうものであったのでしょうか。金属で作られた貨幣が初めてできるのは前7世紀後半のリュディア王国(小アジアの王国)です。前6世紀になると、これがギリシアの諸ポリスにもひろまって、それぞれのポリスがそれぞれの通貨を発行することになりました。となると当然両替業がうまれるわけです。この両替商が、貨幣や貴金属、重要文書の保管、商業取引の仲介業に乗り出し、そして、預かった預金を第三者に利子つきで貸すようになり、いわゆる銀行業(トラペザ)が成立したのです。

いわゆる銀行業が古代のアテネで初めて記録に残っているのは、パシオンの主人、アルストラトスと、アンティステネスでした。彼らはアテネ市民の兄弟で大変な富豪でした。

パシオンはおそらく前430年頃に生まれました。彼は生粋のギリシア人でなくおそらくフェニキア人だろうと推測されてます。彼は幼いときに例の銀行家の兄弟に買われ、前393年にはすでに解放されていたということがわかっています。前395年頃、彼と同じ非市民の家柄の自由身分の女性、アルキッペと結婚しています。そして、彼は独立して銀行業を営みながら、盾を作る工場も経営していました。

パシオンの銀行はアテネの港であるペイライエウスの「取引所」の一角にあり、数人の奴隷を使って経営されていました。当時の銀行は預金に対する利子はなく、貸し付けの場合だけ年利18%以上の利子を取っていたのです。これは、当時の市民同士の貸し付けや、他の貸し付けに比べても高利でした。利率は当事者の合意によって決められ、現在のようは法律による利子の上限の規制はありませんでした。

パシオンとその息子たちは前376年に市民権を賦与されてます。前述のとおりこれは例外的なことであるのでその手続きはたいへんでした。まず、市民の一人が民会において、特別の功績のゆえに市民権を賦与するべきと提案します。そして、可決されると次にまた民会において定足数6000人で秘密投票が行われ、また裁可決されると、ようやく市民として登録されるのです。しかし、民会での決定後も他の市民が民衆法廷に異議を申し立てることができ、法廷の決定によっては取り消されることもありました。市民権を賦与されるということは簡単なことではなかったのです。

ではパシオンはどのような特別な功績によって市民権が与えられたのでしょうか。
@コリントス戦争中に5回の自発的な三段櫂船奉仕(軍船を私費で作り、戦争に貢献)
A1000個の盾の寄贈
B軍船の備品の寄贈

市民権を得ることはパシオンにとって重大な意味を持ったでしょう。当時は法律によって不動産を所有できるのは市民だけであり、パシオンのような解放奴隷や、外国人には認められなかったのです。彼は市民権を得ることによって、土地を担保とする貸し付けが可能になったのです。

さて、このように奴隷からアテネ一の大銀行家になり、市民権も得たパシオンですが、かれは晩年、彼に長年仕えていた奴隷だったフォルミオンを解放し、彼に銀行と、盾の制作工場の経営を委ねました。そしてその一年後彼は死んだのでした。彼は死に際して、妻のアルキッペとフォルミオンの結婚を言い残し、アルキッペの再婚持参金として、約5タラントンを二人に残しました。このフォルミオンはパシオン同様のちに自分の奴隷たちに銀行経営を譲り、そしてアテネ市民権を賦与されたのです。

パシオンの個人の財産は約45タラントンであったと推定されています。この額についてはここで説明するのは難しいけれど、三段櫂船という、200人乗りの軍船を建造するのにだいたい約1タラントン弱ですから、後は頭で計算してみるといいでしょう。ちなみに普通のお金持ちの財産は2タラントンほどです。貧乏人といわれたソクラテスの全財産が5ムナでした。特に技術の無い工事現場の労働者の一日の最低賃金は1ドラクマと少しでした。

計算表
1タラントン=60ムナ=6000ドラクマ
1ムナ=100ドラクマ


参考文献というかねた元
前沢伸行「世界史リブレット2 ポリス社会に生きる」山川出版社 1998











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