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日本の英雄論
〜源頼朝〜

by ふじ



さて、「日本の英雄論」人物紹介第1回は、源氏の棟梁、源頼朝です。
もし彼がいなかったら徹歴のお遊びコーナー第1弾の1つめの課題は別の物になっていたことでしょう。以上、おしまい。

というわけにもいかないんですよね〜。はぁ〜。あまり乗り気じゃないんです〜。人物紹介第1回にして。
実は、最初に考えた時点で、英雄を2人しか挙げることができなかったんですよ。でも2人じゃあんまりだろう、ということでもう一人挙げるなら頼朝かな、と。そして、時代の古い順に紹介していこうと思ったら、記念すべき(?)第1回が彼になってしまったのです。やれやれ。

ここで、人によっては「中大兄皇子は何故紹介しないの?」とか「藤原道長は?」とか、あるいは「卑弥呼は?」と思う方がもいるかもしれませんね。卑弥呼はまあおいておくとして、頼朝までの時代の人に、歴史の流れを変えるほどの偉業を成し遂げた人物は存在しないと判断したので彼らは省きました。所詮は朝廷の権力や皇族の血筋を利用して成功した者ばかりですから。

先に鎌倉幕府(特に頼朝の時)について簡単に説明しておきます。
まず、鎌倉幕府は全国の土地を治めていたわけではありません。幕府の収入源は、頼朝の知行国(東国の約半分と豊後)と、支配権を持つ他の東国(全てではない。当時も国司・領家が存在していた。)、あと元平家、謀反人から没収した土地だけでしかありません。
(※ここで言う東国とは、三河、信濃、越後以東の国のことを指します。)
ただ、治安のために国の武力を握る守護を全国に配置しました。なお、守護は国の行政に介入することを厳しく禁止されていました。言いかえれば鎌倉幕府というものは、東国の武士に土地を支給して、全国の治安を守る組織、ということもできます。
つまり、現在でいうなら全国の警察を統べる組織なのです。簡単に言えば。あと、武士の訴訟の判決を下した組織、ということも書いておきます。

さて、いい加減源頼朝の紹介に移ることにします。
別に彼でなくても平家を倒すことは可能だったように思われます。全国各地で反乱が起きていたし、平家の地盤西国では飢饉が起きていて十分な兵粮を確保することができなかったようなので。また、頼朝の戦術眼もたいしたことはありません。四国に追いやった平家を包囲するためと称して弟源範頼を中国、九州に派遣しますが、その軍は平家を苦しめた飢饉の影響でさんざんな目にあいました。一応地元の豪族の協力を得て九州に辿り着きはするんですけど。
結局は、坂東武者の強さと、義経の戦術によって勝ったようなもので、平家との戦いにおいて頼朝は直接的にはたいした働きをしていないのです。

ただ、その坂東武者を働きやすくする環境を整えていったのは頼朝でした。頼朝が挙兵した当時、京では頼朝のことを「平将門の再来か」と怖れたそうです。頼朝はその誤解を解き、朝廷との関係を改善するよう尽力しました。
また、坂東武者に対しては「我々は朝敵を倒すのが望みである。それを妨げようとした平清盛は天罰をうけて死んだ。仏神の加護は我らの軍にある。」と言うことによって彼らの「朝敵になるのではないか?天罰が降るのではないか?」という迷いを払うことに成功しました。

つまり、彼は政治家としての力量を持っていたのです。
大江広元、三善康信ら京都の貴族出身のブレーンのおかげとも言えますが、彼らの言うことを理解し、その提言を取り入れたのは頼朝なので、やはり相当の政治感覚があったものと見てよいと思います。

この政治家としての力量は、この後もいかんなく発揮されます。
木曽義仲が後白河法皇に迫って無理矢理、元平家の領地全ての支配権と頼朝追討の公文書を出させました。その後、頼朝軍が義仲軍を破って上洛した時に、法皇が義仲に頼朝追討の公文書を出した、という弱みにつけこんで、元平家の領地全ての支配権と東国の支配権を得ることができたのです。
また、平家滅亡後、後白河法皇が源義経にも頼朝追討の公文書を出しましたが、この時義経は逃亡の身となりました。この時も頼朝は同じく弱みにつけこんで、全国に義経を探す為、治安を守るための地頭を置くことを後白河法皇に了承させたのです。
こうした頼朝の政治的な駆け引きにより、鎌倉幕府の形態はできあがったのです。

ここで、なぜ頼朝は大きな戦功のあった弟義経を敵にしなければならなかったのかについて書こうと思います。
「あまりにも戦功が大きすぎたので、頼朝がその戦術の才能に妬んだんだ。」という見方もありますが、もしそれが理由の中にあったとしてもそれはあくまでも些細なことでしかないのです。

ここで、鎌倉幕府がどのような組織だったか振り返ってみましょう。
簡単に言えば「全国の警察を統べる組織」だと前に述べました。現在一般の警察官の人事は誰が行っていますか? 一般の警察官については警察の組織の中で行われているはずです。確か。
ここで、一般の警察官を武士に置き換えてみましょう。つまり、頼朝はこれと同じ事をしようとしたのです。武士の人事は武士が担当する、と。
もし現在、ある一般の警察官を総理大臣が勝手に警察署長に任命したとします。そうしたらきっと警察の人事に大きな混乱が起こることでしょう。義経が朝廷から官位を授かることによりそれと同じようなことが起こることを頼朝は怖れたのです。
では、何故義経は官位を授かったのでしょうか。もし、身内の人が警察署長になったらどう思いますか?普通の人はその身内を誇り高く感じることでしょう。ここで考え直してみましょう。義経は頼朝の弟なのです。自分の官位が上がることを、源氏の誇りと思って無邪気に喜んだのではないでしょうか。

つまり、頼朝の目指す体制を義経が全く理解していなかったのです。
確かに頼朝が目指した、「武士の統率は幕府がする」という考えは、当時画期的なものでした。その意図がわからなかった武士も多かったことでしょう。他にも朝廷から勝手に官位をもらった武士はいて、その武士達は頼朝に「朝廷か ら官位をもらった以上君達は朝廷の家臣だ。だから帰ってくるな。」という態度を取っています。それと同じ態度を義経に対して取っているうちに、義経が後白河法皇に操られて頼朝の敵対勢力として祭り上げられた、というのが正しいと思われます。

と乗り気でないまま書いてきましたが、やっぱり頼朝は歴史の流れを変えるだけのことをしたんだなあと調べながら再確認できました。特に「武士の統率は幕府がする」という部分を、兄弟の血を顧みずに徹底したという点は、今後の武家政権の手本となったようです。
弟義経贔屓の見方が多く、マイナスイメージを持たれることの多い頼朝ですが、政治的な駆け引き手腕等はもっと評価されてもよいのでは、と感じました。











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