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露梁津の戦いについての考察(1)
文/くらくら
露梁津の戦いについての考察(1);同日の気象
以下の考察は、歴史学的な手法からはあまりにもかけはなれ、どちらかというと小説
に使える話でしかありません。ただ、当時戦闘に参加した島津の雑兵はさぞつらかっ
たろう、という話です。面白がっていただければ幸い、、、なのですが、いかがで
しょうか。
1、戦闘のあった月日
北島万次氏が李舜臣著『乱中日記』の解説で詳細に考察しています(注1)が、露梁
の戦いは慶長3年の11月18日(明暦では19日)にあったものと思われます。これをグ
レゴリオ暦に対照すると、1598年の12月16日ということになります(注2)。
2、何時ごろ始まったのか
これは日本の『征韓録』や朝鮮側の『事大文軌』などで共通しているのですが、
「寅刻」です。では、この「寅刻」は何時ごろでしょうか?ちょっと悪戯してみま
しょう。
露梁の位置は東経でいえば沖縄本島上にあたります。『理科年表』2002年度版(丸
善)で那覇(露梁とは20−30分の差です)における12月17日(1日ずれてしまいます
が)の日の出・日没時刻が掲載されているので、それを参照しましょう。
7時10分日の出 17時40分日没
ただ、困ったことに当時の日の出・日没の定義がよくわかりません。江戸時代の貞享
暦でいう掌のみえる程度が目安とする(注3)と、明けと暮はそれぞれ、6時34分と18
時16分ということになります。日が沈んでいる時間は12時間18分ということになりま
すので、日の出である卯の刻の一刻前である寅の刻はその123分前ということになり
ます。12月17日の那覇でいえば、4時31分が寅の刻の正中ということになるでしょう
(ちなみに日韓で時差はありません)。、、、結論として、およそ3時半から5時半く
らいの間に戦闘は始まった、ということになります。
3、当日の気象はどうだったか?
天候を考える場合、開戦当初の状況について、実は先学間で微妙な意見の相違があ
ります。すなわち、(A)月までみえる快晴と、(B)靄のかかった天候、です。
(A)「海上は月光によって鏡のように光っていた。」(注4)
「払暁前にもかかわらず、月が皓々と海峡を照らし、敵味方を十分視認でき
た。」(注5)
(B)「11月18日未明、場所は南海島と半島本土の海峡、露梁津。濃い朝靄の中、」
(注6)
(A) は、あるいは『宇都宮高麗帰陣軍物語』(以下『物語』)かもしれませ
ん。一方、(B)の出典はおそらく、『島津家高麗軍秘録 』(以下『秘録』)でしょ
う。
どちらをとるかで気温のイメージが結構違うわけですが(同じ条件下であれば、前者
の方がより寒いはずです)、私は以下の理由から、(A)説の妥当性がより高い、と
考えています。
@『物語』の著者も『秘録』の著者も共に直接露梁の戦いには参加していません。た
だし、後者の文章は同海戦が全くの遭遇戦であったことの説明に「未明殊ニ朝靄懸
り。世間不分明候故。」とでてくるわけですが、その直前に明・鮮水軍が露梁に出
張っていたことの説明として小西軍が順天を出発した日時を錯誤しています(海戦の
三日前と表記;実際は後詰である島津軍を迎え撃つ事自体が目的で出張っていたわけ
ですが)。前者も元和年間以降の著述と思われ、錯誤自体は多数認めます(義弘と義
久を取り違えるなど;フォーラムの文章は謹んで訂正いたします)が、小西軍の偵察
が海戦を視認できた理由付けとして「月の夜なれハ」としており、どちらかというと
『物語』に信をおきたいと考えます(『秘録』の記述は、忠恒に従い日の出後に戦闘
に参加した観察者がみた朝靄を時間的にスライドさせたか、もしくは一帯に広がって
いた弾幕の煙が、記憶の中で靄に変化した可能性を考えます)。
Aまた、この点はいずれ、より詳細に考察したいのですが、島津軍は関門海峡より狭
い露梁津を深夜に航行しています。水深が浅く、かつ潮の干満が激しいため座礁の危
険をつねに考えねばならない同海域で夜間、ほぼ完全に視野のきかない状況下で軍勢
を動かす判断が下せるとは(案に相違して中途ででてくれば別ですが)、私には思え
ません。、、、戦国期の日本は一般に戦闘の時以外は航行は日中にするのが一般的で
ある(注7)、島津は以前同海域で夜間、船を座礁させた経験を持つ(注8)、など考
えあわせるとなおさらです(実際、この海戦でも樺山久高らが座礁しているわけです
が)。
B残念ながら具体的な数値をだせませんが、同海域で12月は靄の出ることがかなり
減ってくる時期の筈です。
4、当日の気温はどうだったか?
いずれにせよ当日は、雪や雨でなかったのは確かなようです。そこで、現代の当地
の気温につき考察しましょう(注9)。
冬季の南海島周辺は内陸より吹きつける北風の影響を受け、半島東南端の釜山より寒
くなります(等温線でみるかぎり約1℃の差)。釜山における12月の平均気温は4.2℃
(注10)ないし5.7℃(注11)なので、同地域では3−4℃台(陸よりはなれた海洋上
だと3℃ほど上方修正できますが、露梁津の場合陸風の影響が強いはずです)。これ
は日本の太平洋側海岸沿いの都市でいえば石巻より暖かく、水戸より寒い程度にあた
ります(等温線でも確認済み)。ちなみに12月の釜山で最高気温と最低気温の差は平
均して約7℃です(注12)。一日のうちで最も気温が下がるのは日の出前、つまり開
戦の時間帯です。前記の如く晴れていたとするなら、放射冷却も想定せねばならず、
同海域のその時刻は(あくまでも平均でいえば)氷点下近くまで考える必要がありそ
うです。
、、、平均の話はこの辺にしておいて、つまり、海戦当日の同海域は、薩摩・大隅に
住む雑兵にとっては何よりも「寒かァ!」はずです。ちなみに現代の12月における鹿
児島と同地域の差は気温差で5℃強(注10・11出典より計算)、海面水温差で4−5℃
台(注13)。島津氏は文禄慶長の役において海戦自体の経験をそれなりに積んではい
ますが、文禄3年の場門浦・永登浦海戦は旧暦10月初頭まで、慶長2年の漆川梁海戦は
旧暦の7月で、かつ海戦の時間帯や、海戦へのかかわり方を考えると、今回ほどの寒
い経験は大半の将兵がしていなかったはずです。真冬のしかも深夜、氷点下近い中海
上で水しぶきを受けながら戦闘に参加しなければならない将士の心理的ストレスは、
私には想像するにあまりあります。、、、この中で彼らは戦ったのです(注14)。
注1;北島万次「露梁の海戦と李舜臣戦死の月日の錯誤について」『乱中日記3』
注2;野島寿三郎編『日本暦西暦月日対照表』
注3;広瀬 秀雄『暦』
注4;貫井正之「露梁海峡の海戦」『歴史読本特集・豊臣秀吉182合戦総覧』
注5;桐野作人「露梁海戦」『文禄・慶長の役』
注6;中西豪「慶長の役」『島津戦記』
注7;ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』より(岡田章雄訳):
「われわれの船は昼も夜も航行する。日本の船は夜は港に留まり、昼間航行する。」
注8;『島津家高麗軍秘録』:
「鎌田蔵人殿。敷根藤左衛門殿。夜船ニ順天江被差越候処。順天と泊天と間にて。船
を瀬ニ乗上。」
注9;16世紀末葉の気温が現代に比べどうか、残念ながら手持ちの資料が十分ではあ
りません。結論の力点は鹿児島と露梁の温度差にこそあるので、その点ご容赦くださ
い。
注10;守屋荒美雄『新選詳図帝國之部』:昭和9年発行、出典不明
注11;『理科年表』2002年度版:1971年―2000年の平均値
注12;1951年から1980年までのデータの平均
注13;長崎海洋気象台『東シナ海海洋気候図30年報』
http://www.nagasaki-jma.go.jp/kaijou/kikouzu/index.html
注14;実際のところ海戦前後の寒さについてコメントした文章は、市来氏所蔵『朝鮮
日々記』で「十一月ノコトニテサムケレハ」と載っているくらいしか、まだあたれて
いません。
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