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日本人の生活文化の礎(序説)
文/miyada


はじめに

 日本列島において、現在と同じような気候環境になったのは弥生時代頃と言われる。水田を営むのに適した沖積平野が現在の姿に近い状態になるのもこの時期といわれている。我々日本人の生活文化も、この頃に形成されたものが多いと考えられる。生産活動は水田稲作を中心とし、豊作を祈り、収穫を慶ぶ人々の暮らしは、戦後まで確かに存在した。
 しかしながら、もともと日本列島には狩猟・採集を生業とする人々が暮らしていた。近年は三内丸山遺跡の発掘調査を契機に、縄文時代への関心もにわかに高まり、一部で「歴史は塗り替えられた」と言うが、果たしてそうだろうか。実際には、「今までわからなかった部分がわかった」という方が正確である。
 以下に、最新の研究成果をなるべく踏まえて、日本列島を舞台に、水田稲作技術の伝播までの人々の生産活動(狩猟・採集などの食料獲得のための活動)について、若干の私見もおりまぜて述べてみたい。


一 狩猟民の文化

 日本列島各地に人類の生活の痕跡(遺跡)が認められるようになるのは、約2万年前の「後期旧石器時代」といわれる。もちろんそれ以前の遺跡もあるが、これは非常に稀なケースで、実体は明かではない。
 当時の気候は最終氷期(ヴユルム氷期)の最盛期であり、日本列島はユーラシア大陸と陸続きであったとされる。日本列島は亜寒帯針葉樹林に覆われ、食料は、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣への依存度が高かったと考えられる。すべからく人々は、獲物を求めて移住を繰り返した。
 当時使用された石器は刃物が中心で、ナイフ型石器と呼ばれる大型の刃物を製作し、これを棒の先に取り付けた。すなわち槍である。これは、大型獣を獲物とする狩猟生活を営む上で重要な役割を果たした利器であった。
 約1万4000〜1万2000年前頃、気候の温暖化が進んだことにより、動植物相に変化をきたし、大型獣は次第に減少していく。この頃には、日本列島はすでに大陸と海で隔てられ、獲物を求めて大陸へ移住することが困難となっていた。当時の人々は、細石刃というカミソリの刃のような小さな刃物を柄に埋め込んだ投槍を用い、一部で土器を製作する人々もあった。
 土器の発明は、煮ることによって「あく」を抜くことが可能となり、可食食料の幅が広がった点で画期的なことであった。つまり、まずくて食べられなかったものも食料とすることが可能となったのである。この時期には、異なる文化基盤を持つ複数の石器文化が存在したようだが、詳細は述べない。ただ、日本列島に土器が普及するのはもうしばらくたった後のことであり、その時期は刃部を砥石で研ぎだした石斧など、石器製作において研磨技術が導入され、「新石器時代」と呼ばれる文化段階への移行期であり、日本では土器の特徴から以後の時代を「縄文時代」と呼び倣わしている。


二 採集民の文化

 気候の温暖化が進むにつれて、日本列島は、東北日本は落葉広葉樹林(ナラ林)、西日本は照葉樹林に覆われるようになった。日本列島からは大型獣は絶滅し、それに呼応して石鏃が普及する。すなわち弓である。これにより槍の投擲よりも射程範囲が広がり、はしっこい小型獣を捕獲することができるようになった。しかしながら、小型獣では十分な食料を確保できないため、人々の目は森そのものに移っていった。
 約6000〜4000年前、縄文時代前・中期には、人々は定住型の集落を営んで、クリやクルミなどの採集活動を盛んに行うようになる。縄文人骨の分析に基づいて植物食への依存度の高さを指摘する研究もある。近年話題になった三内丸山遺跡はこの時期に栄えた集落である。
 約3500〜2300年前の縄文時代後・晩期には、あく抜きの技術が発達して、トチやコナラなどのいわゆるドングリといったあくの強い堅果類も食料とすることが可能となり、現代にも伝わるあく抜きの技術はこの頃までに形成されたものだと考えられている。
 この時期から、西日本を中心に集落から離れた水辺に大規模な堅果類の備蓄を行い、一度に加工処理(あくを抜いたあと乾燥させて粉にひく)を行う事例が多く見られるようになる。しばしは、数十基もの大きな穴だけがあいていて、住居が見つからない遺跡が発見されるのも、この時期の特徴である。テリトリー内の土地の利用方法が多様化した一例と考えられる。


三 ナラ林の採集民と照葉樹林の採集民

 一般に、ナラ林の方が照葉樹林より生産性が高いと言われる。換言すれば、前者の方が多くの食料を手に入れることができると言うことである。事実、縄文時代の遺跡の分布は、東北日本のナラ林帯に偏重する。三内丸山遺跡のような巨大な集落は、西日本では発見されることがない。
 人々が定住生活を営むようになった縄文時代前期、ナラ林帯で注目されたのはクリであったといわれる。クリは、二次林を形成する植物であり、森を切り開いて作られる集落の周囲に生育しやすいとされる。ナラ林帯に位置する縄文集落の土層からクリの花粉が非常に多く検出され、この傾向は縄文集落で多く認められる傾向であるという。人々がクリの木の林を管理していたと言うことも定説になりつつある。照葉樹林帯では、人工的に栽培でもしない限り、このようなクリ林は形成し得ないとされる。
 一方、西日本の照葉樹林帯では、ドングリの大量備蓄などに特徴づけられるように、森林資源を組織的に利用する傾向が強く、食料の備蓄に多大な労を費やした。これは、主に縄文時代後期以降の傾向で、西日本でも、この時期の遺跡は比較的多い。西日本の採集民の文化は、中国の江南地方のあたりの焼畑農耕段階の文化と関係が深いとも言われ、あく抜きの技術もこの頃伝播したとする説もある。弥生時代にいち早く水田農耕が伝わるのもこれらの地域である。事実、縄文時代後期において、西日本では、しばしば農耕(たいていは焼畑農耕に該当するもの)の存在が指摘されている。


四 農耕文化の伝播

 日本列島で、最初に本格的な水田稲作が伝播するのは縄文時代晩期、玄界灘・博多湾周辺(現在の福岡県)である。このときに大陸から人々が移住した事実が人骨の調査から指摘されている。水田稲作のルーツは別問題として、北部九州に稲作の技術をもたらしたのは朝鮮半島南部から渡ってきた人々と考えるのが、最も妥当であろう。最も古い弥生土器は朝鮮の土器との類似性が指摘されている。
 この時期は弥生時代早期とも呼ばれるが、あくまで局所的な現象であり、九州のその他の地方や西日本一帯は、依然として縄文時代の伝統的な暮らしを維持している。ただし、縄文時代後期に認められたようなドングリの大量備蓄は盛んではなく、焼畑農耕へ生産活動の比重が高まっていた可能性がある。東北日本では、この時期は遮光器土偶で有名な「亀が岡文化」が栄えていた(もともと縄文時代晩期は、亀が岡文化の時代のことを言った)。
 縄文時代晩期は、やや寒冷な気候に推移した時期と考えられていて、植物相にも影響が現れたと考えられている時代である。そうはいっても植生が変化するほどではなく、元々生産性の低い照葉樹林帯で生活を営んでいた西日本の人々は食糧難に苦しんだとも言われている。この事実が確かめられれば、西日本で焼畑農耕への依存度が高まるのもある意味では蓋然的である。水田稲作を中心とする農耕文化は、このような時代を背景に急速に西日本一帯に波及した。


おわりに

 日本列島において、人々が定住生活を営むようになった縄文時代、自然のサイクルに順応した彼らは、自然を享受し、そのサイクルの中で生産活動(ここでは特に採集活動)を組織的に行い、ある程度の発達した社会システムを作り上げたと考えられている。その過程で世界でも有数の高度な採集民の文化をはぐくんだ。しかしながら、その一方で縄文社会は、定住生活を営むが故に環境の変化に順応しきれない脆さもはらんでいた。繁栄を極めた縄文文化は、環境の微妙な変化の前にやがて衰退してしまった。
 約2300年前、朝鮮半島の人々によってもたらされ、現在の福岡県に根を下ろした水田稲作文化は西日本を席巻し、その影響は東北日本にも及んだ。蓋し、農耕文化の歴史は開拓の歴史であり、農耕文化は、自然と対峙する文化である。その後の日本列島において農耕社会を発展・定着させたのは、他ならぬかつての採集民の子孫であったことは、形質人類学的に確かめられている。農耕社会の発達によって、誇り高い(?)採集民の文化は影を潜めてしまうが、しかしながら採集民のはぐくんだ知識や技術は、彼らの中に生き続けたのである。これについては別稿を計画中である。


◆参考文献◆

松山利夫 著 1982年 『木の実』ものと人間の文化史47 法政大学出版局
鈴木忠司 著 1984年 『先土器時代の知識』 東京美術
森 浩一 編 1986年 『縄文・弥生の生活』日本の古代4 中央公論社
佐々木高明 著 1991年 『日本史誕生』日本の歴史1 集英社
梅原 猛・安田喜憲 編著 1995年 『縄文文明の発見』驚異の三内丸山遺跡 PHP研究所













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