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史実と文学

「史実」とは、歴史の真実、と書く。すなわちこれは、歴史に起きた事象の素顔、つまりすっぴんの歴史、とでも定義付けられるであろう。他方、「文学」ここでは歴史小説の事であるが、これは、いかに現実の、つまり歴史の事象を題材にとっていようと、やはりフィクションという位置付けをするべきであろう。すなわち素のままではない、化粧をした歴史 とでも言える。
何故、こんな分かり切った事を書いたかというと、歴史小説イコール史実と混同している方が、あまりにも多いことを、最近身を以て知ったからだ。

小説というものは、歴史モノに限らず、いわばエンターテインメント的な要素を多く孕んでいる。つまり、どれだけ史実に忠実を描写していようとも、やはりエンターテインメントである以上、受け手を楽しませねばならない為に、多少の脚色は止むを得ぬところであろう。多少の脚色をしている、というのが、もはや前提としてある以上、受け手側も、それを念頭において楽しみを享受せねばいけないはずである。

ところが前述のように、最近、その前提をコロっと忘れ、小説イコール史実と取り違えておられる方が余りにも多い。
先にも書いたとおり、歴史小説の歴史とは、化粧をしたようなものであって素顔とは違うのである。さらにまた、厚化粧の女性がいるように、過分に色付けをした歴史小説だって、存在するのである。もしも、そういった類に拠って、歴史論を為すならば、ハッキリ言って、それはまずい。歴史を探究する手立てを知らぬ、とは言いすぎかも知れないが、ちょっと歴史というものを誤解していると思う。

歴史小説、というものは、いくら事実に忠実に書いていようと、やはり、その中の主人公は、虚構という海の中で泳いでいるに過ぎないのである。歴史小説は史実、と取ってしまうことは、横溝正史の小説を読んで、金田一耕助が実在の人物である、と勘違いするのと同義といっても良い。歴史小説イコール史実、と取り違えることが、如何に歴史の本質を見失ってしまうものか、以上で既に明白であろう。

ところで私は、最近、このテーマで、とある方と論争する機会を得た。その方いわく、「史実と呼ばれるものだって、多くの考察に拠ったフィクションのようなもの。だったら史料を信用しすぎるのも、歴史好きとは言えないだろう。私は小説の方を信用する」という事であった。結論から言ってしまえば、この論は、かなりムリがあるだろう、としか思えないのだけれど、確かに一理はある。
確かに、史料なら何でも一発信用、というのも、また考えものである。特に当事者側が編纂した史料というのは、粉飾されてる部分が多々ある、と眉にツバをつけてかかった方が良いであろう。しかしそれでも、やはり、小説よりは史料の方が信用するに値するのは、当然のことであるし、またそうしなければならないと思う。

誤解されぬ為に一つ言い添えるが、私は、そういう歴史小説がいけない、と言っているのではない。私は、歴史小説も大好きだし、小説製の歴史も好きである。ただ、やはり、それは素顔の歴史とは違う。やはりちゃんと割り切らねば、ちょっとまずい事になってしまうだろう。
誤解を恐れずに言い切ってしまえば、歴史小説の歴史と、史実のそれとは、まったく別次元のパラレルワールドで進行する別物、と考えたほうが良いかもしれない。

ところで歴史小説を考える上で見逃してはならぬのが、御大司馬遼太郎であろう。彼の小説を読んで触発されて、歴史の世界に飛び込んだ方も多い。私も、司馬さんは古今東西の小説家の中でも、五指に入る人物だと思っているし、歴史好きの一人として、彼は畏敬の存在である。
確かに彼の作品は、徹底して史実忠実主義であるし、史料の調査も徹底してている。『坂の上の雲』を執筆するときなど知り合いの古本屋に、日露戦争に少しでも触れている本は全部市場で探して送れ、と頼む程の徹底した調査 ぶりであったそうだ。
しかし、それでもやはり、楽しみを目的に作られた歴史小説であり、脚色があるのは当然である。例えば『燃えよ剣』の新撰組像が、真実の新撰組像だと考えておられる方はいないだろうか?。無論、そんな筈がない。新撰組だって人間である以上、活字だけで全てを表現できるほど、単純ではない。

ここで、二人の方の論述を引用させて頂く。少し長いけれども、引用させていただく回り道をお許し願いたい。
まずは、評論家の松本健一氏の論述である。
「司馬さんはその物語作家としての卓越した才能ゆえに、かれの『歴史という物語』は、史実そのものとして錯覚されてきた。 そろそろ、その『国民作家』という称号をはずして、かれの文学についての冷静な評価をすべき時期がきているようにおもわれる」
       (98年2月25日付『中日新聞(東京新聞)』夕刊より)

そして次は熱狂的な司馬ファンとしても知られ、『司馬遼太郎の贈りもの』という著書もあり、私が、当代随一の司馬文学の良き理解者と考えている谷沢永一氏は、自著の、渡部昇一氏との対談の中でこう書く。
「司馬さんは小説を書くために小説を書いたんじゃなしに、日本全国民に訴 えたいこと、言いたいこと、伝えたいこと、申し述べたいことがある、と。それを伝えるためにどんな形式が一番いいか。それは小説というなんでも盛り込めるものだと、こういう考えで書いた。あれは我が国びとへの語りかけなんですね。」
           (『司馬遼太郎』96年・PHP研究所刊、より)

問題の本質は、ここに引用したお二方の意見が、全てを語っているので、私はこれ以上は立ち入らない。

最近では、藤岡信勝氏(東京大学教育学部教授)の主宰する、自由主義史観研究会という団体が、『坂の上の雲』を史実ととり、それを基にした教科書を作ろう、と触れ回る陥穽に嵌まっているが、歴史小説にせよ、あるいは、いかに信用できる史料であったにしても、盲信しない事が大切であると、私は思うところである。

(1998年9月4日 By直弼)














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