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歴史と素材
直弼氏筆



1.はじめに

 歴史の叙述は、歴史学が始まって以来「史料」に基づいて行われてきました。 いわば史料が、ひとつの歴史像を構築する際の骨組みとなるわけです。そうし て構築された歴史像は広く知られ、皆さんの共通知識となります。
 では、その史料の信憑性、といったものは不動のものなのでしょうか。史料の 信憑性とはすなわち、その史料を基に構築された歴史像の当否という問題につな がります。つまり、史料の信憑性が否定されてしまった場合、その歴史事実その ものが宙に浮く場合もありえます。
 今回は、歴史像の土台となる、史料の問題について書いてみたいと思います。

2.史料の内容について

 本論に入る前に、これだけは注意しておかねばならない、ということについて 述べておきたいと思います。
 史料というものは、例えば幕末のものでも、150年以上の時空を乗り越えて現代 に生き残ったものです。この150年の間、日本には何があったでしょうか。天災も あったでしょうし、また、火事などの人災も無数あったでしょう。さらに、戦争と いうものもありました。その過程で、多数の史料が無に帰したことは想像に難くあ りません。今日残った史料は、それらを生き抜いてきたわけですから、残っている こと自体が奇跡といってもよいのです。従って、どんな史料であっても、それを最 初から無視したり、バカにしてはいけないということ、この点だけは史料を扱う者 として強調しておきます。
 とはいえ、なんでも無批判に史料を信用していいか、と問われると、そう言えな いのが難しいところでもあります。
 先ほど、史料は長い時間を乗り越え生き残ってきたと書きました。当然、その過 程で多くの人がその史料に触れてきたわけです。その中に、作為的に史料の記述を 変えてしまう人が出てきてもおかしくありません。そうした史料を基に書かれた歴 史像が世の中に流布し、すっかり人々に定着したところで、新しい史料が発見され る・・・・。こんな事はよくあります。でも人々の中に定着した歴史像はなかなか更新 されず、誤った歴史像が一人歩きしてしまうことになります。
 史料の内容が書き換えられた実例を一つ挙げましょう。江戸幕府の五代将軍であ る徳川綱吉(正保三<1646>〜宝永六<1709>年、在位延宝八<1680>〜宝永六<1709>年) に側用人として仕え、530石取りから15万石を与えられるという、異例の出世を果た した人物に、柳沢(松平)吉保(万治元<1658>〜正徳四<1714>年)という人がいます。 この柳沢吉保の伝記として長い間信用され、叙述に用いられてきたものに「柳沢家 秘蔵実記」というものがあります。大正三年に、国書刊行会より刊行された『列侯 深秘録』という書物に収められて世に知られ、現在では、甲斐叢書刊行会が編集し た『甲斐叢書』の第三巻に収録されています。長らく、柳沢吉保について叙述する 時はこの史料によって、それがなされてきました。
 ところが、この「実記」は、現在、奈良県大和郡山市にある柳沢文庫に所蔵され ている『源公実録』という書の前半だけを切り離して完本の体裁にしたもので、な おかつ、内容に二箇所の大規模な改ざんを加えたものだったことが、近年明らかに なりました(なお、この『源公実録』は柳沢文庫から「柳沢史料集成」第1巻として 発売されており、堀井寿郎氏による内容の比較考証も収載されています)。  このように、史料は他人の手を経ているだけに、改ざんされている可能性も多分 にあります。従って、今日流布している歴史像が不動の真実ではないということ、 その歴史像は更新される可能性が絶えずあるということ、は、皆さんに分かってい ただきたいと思います。

3.史料そのものの性格について

 先ほどは、史料の内容についての問題点を見てきましたが、今度は、史料そのも のの性格について考えて見ましょう。題材とするのは江戸時代のお話です。
 例えば、皆さんが、本屋さんの雑誌コーナーに行った時のことを思い起こしてく ださい。多くの雑誌が並んでますが、その中には「女優AとアナウンサーBが熱愛!」 とか「アイドルAは中学時代、不良だった!」とかいうような、信憑性を疑いたくな るような記事が満載のゴシップ雑誌も多いはずです。それらは、これから100年後、 200年後、史料として扱われるものです。ですが、そのような雑誌を根拠に歴史を叙 述すれば、今日の実像とは程遠い歴史が描かれてしまいます。
 このようなことが、実際に現代で起きています。出版技術が発達し、本が一般化 した江戸時代では、今日のゴシップ雑誌のような本も多く出されました。それらを 元に描かれた歴史像が、広く流布してしまうこともあります。
「生類憐れみの令」といえば、皆さん、ご存じない方はいないでしょう。江戸幕府 五代将軍の徳川綱吉が出した動物保護の法令を指し、稀代の悪法として知られてい ます。この「生類憐れみの令」が出された背景として、知られているのは以下のよ うな逸話でしょう。

綱吉は長男を亡くして以来、跡継ぎに恵まれなかった。そこで僧侶の隆光が進言した。
 「跡継ぎに恵まれないのは、前世に殺生を多く行った報いでございます。ですから、跡継ぎを授かるには、生物をいつくしんで殺さないに限ります。 ほんとうに跡継ぎが欲しいとおぼしめすなら、殺生を禁止なさいませ。 それに将軍様は戌年のお生まれでいらっしゃいますから、犬をいつくしむのが最善でございましょう。」
 (山室恭子『黄門さまと犬公方』文春新書、1998、より引用)

 この話は有名でしょう。歴史に関心をお持ちの皆さんなら、必ず一度は聞いた事 があると思います。ですが、結論から言うと、この話はまったくの作り話です。
 この話が載っているのは「三王外記」という江戸時代に成立した書物ですが、こ の書物は、柳沢吉保の子供・吉里は、実は綱吉のご落胤だとかいうゴシップ記事が 満載の、まさに先ほど例え話で挙げた週刊誌のようなものなのです。
 また、先の逸話に出てきた僧侶は、護持院隆光(慶安二<1649>〜享保九<1724>年) という僧ですが、この隆光は『隆光僧正日記』という大部な日記を残しています。
(現在、続群書類従完成会より「史料纂集」期外として全三巻で活字化されています) この日記には、ほとんど「生類憐れみの令」の記事は出てきません。さらに言えば、 隆光が綱吉に接近するのは貞享三<1686>年に、江戸にある知足院という寺の住職に 任命されてからのことですが、現在、生類憐れみの令の初見とされているのは、そ の一年前、貞享二<1685>年7月14日付けで出された、「将軍御成りの道筋においても 犬や猫をつないでおく必要はない」というお触れだだとされています。
 従って、この話は真っ赤なウソ、という評価が現在では一般的です。もう一つ言っ てしまうと、綱吉は宝永元<1704>年に、甲府にいた甥の綱豊を養子にもらい、後継ぎ とします。これが後の六代将軍徳川家宣です。後継ぎが欲しいなら、宝永元年の段階 で生類憐れみの令は廃止されてても良いはずですが、実際には、法令はその後も、綱 吉が亡くなる直前まで出され続け、廃止となるのは(ただし全面廃止ではありません)、 家宣が将軍に就任した宝永六年になってからなのです。ですから、どう考えても、こ の跡継ぎ欲しさ説は成り立ち得ないのです。
 では、あの法令の真の目的は、といった話は史料論から離れるので、それは別の 機会に譲ることに致しますが(余談ながら筆者の研究テーマは、この生類憐れみの令 です)、ともかく、史料にも、信用できる一次史料と、眉唾ものの二次史料があるこ とは知っておいてよいでしょう
。  なお筆者は「三王外記」の記述は信用に足るものではないと考えてはいますが、当 時の人々が、この「生類憐れみの令」や将軍綱吉をどのように評価していたか、とい った意識を知るために、この史料は価値あるものだと考えています。

4.史料の存在について

 ここまで、内容そして性格といった切り口から史料を論じてきましたが、最後に、 一番極端なケースを挙げましょう。それは、その史料自体が存在しないにも関わらず、 その歴史事実があった、とされている場合です。
 江戸時代、三代将軍徳川家光の時期は、鎖国や参勤交代の制など、幕府の基礎的な 制度が固定化した時期とされ、この時代に至って幕府の権力は磐石のものとなったと 位置付けられています。
 そんな時期、農民の生活を規定する一つの法令が出されたと言われています。慶安 二<1649>年に幕府から出されたとされる「慶安の御触書」がそれです。この史料は中 学校の歴史の教科書にも載っている有名な史料です。その一部を引用してみましょう。
「農民は朝早く起きて草を刈り、昼には田畑の耕作、晩には俵や縄を作り、油断なく仕事をせよ」
「百姓の衣類は、布・木綿のほかは帯や着物の裏にしてもいけない」
「酒や茶を買って飲んではならない。妻子も同様である」

(以上、山本英二『慶安の触書は出されたか』山川出版社、2002より引用)

   現在、私たちが想像する近世期の農民の類型は、この史料に描かれた農民の姿では ないかと思います。このように、近世期の農民の在り方を規定したと考えられてきた この史料ですが、実は、この「慶安の御触書」の存在については、古くから疑問を唱 える考えがありました。しかし、ではこの史料は何なのか、については、決着を見て いなかったのです。
 近年、それを明らかにされたのが、信州大学助教授の山本英二氏です。その所論は 『慶安御触書成立試論』(日本エディタースクール出版部、1999)や、前述の『慶安の 触書は出されたか』(山川出版社「日本史リブレット」38、2002)によってうかがえま す。その謎解きの過程は、まるで推理小説を読んでるようでとても面白く感じます。 この史料が一体なんだったのか、については、推理小説の犯人をばらしてしまうよう なものなので、ここではあえて申し上げません。興味をお持ちの方は、前述の書籍を ご覧いただきたいと思います。
 ですが、ほんの少しだけ言うと、この史料は確かに実在はしますし、江戸時代の物 である事は確かですが、「慶安二年に幕府から出された」法令ではないのです。つま り、慶安期の幕府法令としての「慶安の御触書」は存在しないのです。
 このように、史料が存在しないにも関わらず、後世の間違いがそのまま歴史事実と して共通認識となることもある、ということがお分かりいただけたかと思います。

5.おわりに

 ここまで、史料について述べてきました。歴史も決して不変のものではなく、常に 揺れ動き、更新される可能性に常にさらされている、ということがお分かりいただけ たかと思います。長年、用いられてきた史料でもその存在に疑問符がつけられること は多々ありますから、現時点で存在する史料のみを完全に信用し、それを元に構築さ れた歴史像を不変のものと考えることは出来ないのです(これは、筆者自身、史料を扱 う者として自戒の念を込めて申し上げます)。当然、歴史叙述を行う際は、厳密な史料 批判が行われますが、それにしても、完全無欠な実証が行われる、ということはあり ません。
 とはいえ、筆者は決して史料の持つ価値を軽視するものではありません。確かに歴史 を書き換える場合は史料によりますが、その書き換えられるべき対象もまた、史料によ って書かれるべきものであることは申し上げるまでもありません。
 なぜこんな当たり前の事を申し上げるかというと、一部の歴史作家などには「この事 は史料には書かれていないが、これは権力者にとって都合が悪いから、記録から抹消さ れたのだ。よって、史料はないが、こういう事があったのは間違いない」というような 事を書く風潮が見受けられるからです。史料から離れたところでなされた叙述は、妄想 や空想であり、決して歴史を描いていることにはならないのです。そういった歴史叙述 は、床屋政談の類です。いくら史料を神聖視してはならないとは言え、史料を全く無視 した歴史叙述を、筆者は擁護するものではありません。「語りえぬものについては沈黙 しなければならない」とは、ヴィトゲンシュタインという哲学者が書いた『論理哲学論 考』の一節ですが、それにならって申し上げるならば、史料をもって語れない事実は語 るべきではないのです。この点だけは最後に強調しておきたいと思います。
 私たちに必要なのは、先人の研究業績は尊重しつつも、その上にあぐらをかくのでは なく、既存の歴史像に問いかけを続け、より良質の史料を使い、より緻密な実証を行い、 新たな歴史像を自ら構築していく努力ではないかと思います。












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