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国際的な歴史視点を持とう・・・日本史の場合
by 徹夜城



 歴史が好きな人ってたくさんいますよね。ある人は三国志から入って中国史が好きになり、ある人は戦国武将や幕末の志士たちが織りなすドラマに魅せられて日本史のファンになったりします。これをすべて「兼任」している方々もよく見かけます。そしてそこから日本史・中国史の他の時代、さらに各国の歴史へと進んでいって興味を広げられたらとっても素晴らしいことですよね。
さて、こういった趣味としての歴史研究だけでなく、専門に学問として行われる歴史研究においても、今最も必要とされているのは「国際的な視点」って奴なんじゃないかと思います。言い換えると「日本史」「中国史」「西洋史」などなどといった「各国史」という枠組みにとらわれない研究姿勢です。

身近な所で日本史の話をしてみましょう。
「日本史」なるものが開始されるのは弥生時代だと考えられます(いちおう文字記録から「歴史」を定義すると)。弥生時代はご存じのように稲作が開始され、小国家が成立し、やがてその小国家間に戦乱が起こって、より大きな国家への気運が盛り上がっていくという激動の時代です。
この変化はなぜ起こったのか?稲作と共に大陸(半島)から農耕を行う人間自体がやってきたと考えるのが自然です。じゃあなぜその人々は海を越えて日本に来たのか?当時の朝鮮半島に高句麗・新羅・百済・加羅といった新国家が次々と成立していたことがその大きなヒントになるはずです。つまるところ、「日本史」はスタート時点から国際的な情勢のもとに成り立っていたわけです。

そしてその中から成立していった小国家は早くも国際政治の舞台に登場します。有名なのが「漢倭奴国王印」の話ですね。あれってよく考えると大変な話ですよ。「奴国(倭奴国とする説も有り)」なんてのはどう考えても北九州の一部に存在した小国家です。それが中国大陸全土を支配する漢帝国に使者を送って自らの国際的承認を求めたわけです。しかも光武帝の時ですから、後漢王朝成立の情報をちゃんとつかんでいたと考えられます。ちなみに光武帝の前の「新」王朝の貨幣が北九州で見つかっています。

以後、日本から中国の王朝に使者が派遣され中国皇帝から地位の承認を得る、というパターンは繰り返し行われます。邪馬台国しかり、「倭の五王」しかり。聖徳太子だって遣唐使だって同じようなもんです。長い目で見れば基本的に室町時代までこのパターンは繰り返されます。
ちょっと前だとこういう外交の展開は「なんと卑屈な」とか言われたものですが、歴史的に見れば「それが当たり前の国際関係」だったわけです。東アジアは誰がどうみたってでっかい中国がドーンと存在し、まわりの国々はチマチマとその周囲に存在しているに過ぎません。文化的にも政治的にも多大な影響を免れません。日本が国際政治にデビューするには中国の承認を得るのが必然的だったわけです。それで別に承認を拒否されるということもなければ内政に干渉されるということもなかったはずです(もっとも中国が直接利害にからむ場合は別なんですけどね)。
考えようによっては今日のアメリカが世界の大部分を支配する構造よりはずっと緩やかです。

さて、以上のことは上層部の国際政治の話です。国際的な影響と言うやつは、外交レベルだけでなく当然のように経済的な部分に大きく現れ、それが政治上に反映してきます。
ちょっとホラ話っぽく聞こえるかも知れませんが、いわゆる「源平合戦」の背景には宋と結びつく平氏=西日本勢力と、北方交易ルートで大陸と結びつく源氏を初めとする関東武士団の対決、という見方があるんです。もちろん全面的に信用できるわけではありませんが、この争乱が金を産出する奥州藤原氏の滅亡で終わるあたりは意味深です。で、この結果成立した鎌倉幕府はモンゴル帝国という世界規模の活動の影響をモロに食らって滅亡するわけ(戦闘には勝ったけれど結局あれが命取りになったんだよね)。

南北朝争乱だって周囲の国際環境の激変の中で行われています。モンゴルは北方に追われ明が勃興、おとなりでは李氏朝鮮が成立、その中で足利幕府は明に自らの「国王」の地位の承認を求め、国内外の権威を高めていくわけです。これに対する南朝の九州勢力(懐良親王)がどうも「倭寇」に一枚かんでいたようなんですが、この辺り双方が正式交易ルートと非公式交易ルートを代表しているようにも見えますね。

こう話を進めてくると「そんなに昔の日本は経済的影響を受けるほど交易やってたの?」という声が上がるかも知れません。結論から言うと「やっていた」どころか完全に「中国経済圏の一部」であった、と見ることができます。なんてったって、流通している貨幣が全部中国の貨幣ですから。平安時代の終わりごろから宋銭が、室町期には明の貨幣が流通しています(ほら、真田家の家紋「六文銭」って「永楽通宝」でしょ)。自前で貨幣を作れないわけじゃないんですが、その必要がなかったんです。戦国時代まで日本経済は「中国経済圏の一部」として位置づけられます。僕の専門である「倭寇」もその経済的背景を抜きには語れません。

ところが戦国時代のさなかに大異変が起こります。石見銀山の発見です。戦国マニアの方ならご存じでしょうが、尼子・毛利の間で大争奪戦が繰り広げられましたね。あの銀山の存在はあんな地方戦で片づけられるようなもんじゃないんです。なんと世界史レベルで大激変をおこすんですよ。16世紀に世界に流通した銀の実に3分の1が石見から出たとする数字も上がっています。この銀は朝鮮・中国・さらにヨーロッパにまで輸出され各地で「価格革命」を引き起こします(ヨーロッパの価格革命は南米産の銀で起こされたってのが通説だけど日本銀の存在も大きかった、と考える意見もあります)。この影響ってほんと深刻で中国では明から清へ交代していく激動の下地を作ったとも考えられます。そして当の日本では国内統一が進み、統一を達成した秀吉は自ら貨幣を作ります(大長判ってやつね)。
ここで「中国経済圏」から脱却した日本はどうしたか?大陸への侵攻を開始し、「中華」の征服を企てるわけです。ま、これは途中の朝鮮の善戦で食い止められますが、結果的に女真族によってその目的は達成されるわけです(ヌルハチは秀吉の影響受けたんじゃないかって話もあるんですよ、マジで)。

その後の江戸時代、「鎖国」が行われるわけですが、これも通説のキリシタン対策よりも貿易統制の目的が大きかったのではないか、とする説もあります。また鎖国後の江戸時代が決して世界の政治・経済から孤立していたわけではないことは以前から指摘されてますね。

そして幕末の風雲ですが、これは言うまでもなく「外圧」からスタートします。「近代ヨーロッパ」との接触がもたらした動乱です。戊辰戦争なんてしょせん海外列強の代理戦争って部分もありますよね、乱暴に言ってしまえば。そして日本は中国を中心とする東アジア文化圏からヨーロッパ中心の世界にあっさり乗り換える「明治維新」をやってのけ、植民地化されずにすむことになります。
よく「日本にはサムライがいて異人斬りなんかして西洋人に負けてなかったから植民地化されなかったんだ」という俗説がありますが、これは大ウソです。中国や朝鮮の方がよっぽど多く西洋人を殺しているそうです。つまるところ、日本は「切り替えが早かった」ということになります。で、欧米列強と同じ事をアジアにしていくわけです。

長々と「国際的視点でみた日本史」を書いてみました。念のためつけ加えますが、これはあくまで一つの歴史の見方です。もちろん日本史をすべて国際視点で説明しようなんてことを考えてる訳じゃないんですよ。ただそういう見方がある、ということ。この視点を無視して日本史は語れませんよ、ということなんです。これは何も日本史に限ったことじゃなくて中国史にだって西洋史にだって言えます。完璧に孤立した社会なんてあるわけないんですから。

どこの歴史を研究するにしても、こういった広い視野に立った(まぁ見ようによっては大風呂敷をひろげた)視点をもっていてほしい、ということです。一点に集中した狭い視点だけでは本当の「人間の歩み(これを歴史といいますね)」を見失いかねないですからね。

(By 徹夜城)













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