【第一回:忘却の穴】
同じような出来事が起きてもそれが歴史的な出来事になるかもしれないし、ならないかもしれない。こういうことは容易に想像がつきます。ゴビ砂漠のど真ん中でマグニチュード10の地震が起きてもそれは歴史的な出来事にはならないでしょう。我々がゴビ砂漠でのその地震をなんらかの方法で観測したとしてもです。同程度の地震がどこかの都市で起きればそれは歴史的な出来事になるでしょう。
このように歴史的な出来事になれる出来事とそうでない出来事の違いはただ一点です。人間にとっての歴史的出来事として有意味であるかないかという点です。ここで「人間にとっての歴史的有意味ってそもそもなんだよ。」という疑問を持つ人がいるかもしれませんが、そこには触れずに少し先に進みます。そこにはいつか触れるでしょう(と言っておきます(^^;)。取り敢えず、素朴に有意味であろうと思われる(他の歴史的出来事との関連を有意味に語ることの出来る)出来事を歴史的出来事としておきましょう。
しかし、この「人間にとっての歴史的有意味ってそもそもなんだよ。」という質問を除いてもまだ疑問が多々生じます。今回のテーマはそのような疑問の一つであろう歴史的に有意味だと思われても語ることの出来ない出来事の問題です。
ここで一冊の本の中の論文を紹介させていただきます。岩波書店から出ている【岩波講座】現代思想の九巻、「テクストと解釈」の中に所収されている高橋哲哉さんの「記憶されえぬもの 語りえぬもの」です。この本は3400円(税別)もするのですが、興味のある人は読んでみて下さい。この論文だけでしたら立ち読みできる長さ(37ページ)ですし、このシリーズの本は大体の図書館に入っているかと思います。そして私の誤読、誤解などを見つけた人は是非お教えください(^^;
さて、この論文はヒトラー治下のドイツ、スターリン治下のソ連での強制収容所及び絶滅収容所についてのハンナ・アーレントの「全体主義の起源」の中での考察の紹介から始まります。とんでもなく端折ることになりますが最初の部分を要約するとこうです。
強制収容所、絶滅収容所の真の恐ろしさは<生きる資格のない人種>、<死滅する階級>に属すると一方的に規定された人々を<絶滅>に追い込むという行為の恐ろしさと共に、<犠牲者の跡形もない消滅>を実現しようとしていた点にある。<犠牲者の跡形もない消滅>というのはこの世から抹殺したい任意の人物を追憶する者全てをも消し去り、当人についての記憶もろとも完全にこの世から抹消することで、このことは原理的に可能である。
なんだかわかりにくい要約になってしまいましたが・・・。ある人がこの世にいた痕跡を一切残さないようにする為にはその当人を殺すだけではなく、そのある人について少しでも関係している人間全てを消し去る必要があります。それを何十万、何百万人単位で実現しようとしていたのが強制収容所や絶滅収容所であるということです。そんなことは不可能だ、と考えるかもしれませんが、それについてはソヴィエト・ロシアの秘密警察が国民一人一人の住民についての「たまたま知り合ったという間柄から真の友人関係をへて家族関係にいたるまで、人間と人間のあいだに存在するありとあらゆる関係」を綿密に記載した秘密調査書類を持っており、「任意の人物を当人についての記憶もろとも消し去ることにもはやいかなる原理的困難もなかったのだ。」という部分が原理的に実現可能であることの証左とされています。(「」部分は引用。)このように人間を「忘却の穴」深くに消し去ることの恐ろしさがこの論文の最初で強調されているわけです。
実際にこのようなある任意の人物がこの世に存在していたことも含む完全な抹殺が可能かどうかは知ることが出来ません。もし実現されていたとしても我々に追憶する術は何もないからです。つまりその出来事について語ること、記憶することを不可能にするということです。
かなり長くなってきたので今回はこの「忘却の穴」に関する要素のうちの上述の点についてだけの紹介にしておきます。第二回以降にまたこの続きをやるつもりですが敢えて結論を先取りするのを承知で言ってしまえば、この「忘却の穴」に陥った出来事は歴史的出来事として有意味であると思われていてもその出来事について語ることを不可能にされてしまうことを通してある種の限界を示唆します。このような「忘却の穴」によって示される記憶、語ることの限界、つまりは歴史の限界というものを見据えながら第二回目に続きます。
と、いうことで第一回目を無理矢理終わらせるわけですが・・・読み返してみると不明瞭ですなぁ〜(^^;
質問、批判などくだされば可能な限りお答えしたいと思います。
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