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ウイグル獄長の空談地獄(第二回)
by ウイグル獄長



【第二回:迷走!!】
さて、第二回です。前回の終わり方が唐突だったこともあって(唐突に終わらせたのは私ですが(^^;)先の見えない不安に苛まされております。先の見えない状態で迷走を続けるのも良いのですが取り敢えず今後二〜三回の見通しをここで立てておきたいと思います。前回の続きとしてこの回で忘却の穴と、それに関連して映画「ショアー」の話をするつもりです。実はこの見通しを立てている段階では今回の空談だって見通し通りに進むかは保証出来ないと私は無責任に考えていますが。てへっ。

まあ、今回の空談が目論見通り進行したとして、次回以降のテーマですが。次回は恐らく映画「ショアー」とその監督クロード・ランズマンに対して微妙な(主に対立)関係にあると思われるロニー・ブローマン、エイアル・シヴァンの映画「スペシャリスト」を扱うことになるかと思います。更にその後には統一後のドイツでの庇護権申請者、外国人労働者に関することをやろうかと考えています。大体その辺りまでが一連の連続した話になるんじゃないかなあとぼんやりと思いながら縁側で日向ぼっこをしている今日この頃です。

これらの一連の話題を扱う意図もある程度明かにしておきたいと思います。これからの数回の空談の中心にあるのはやはり「忘却の穴」の問題です。現時点では「忘却の穴」の概念の紹介(それすらも満足にできていませんが)に終始していますがこの「忘却の穴」というものから導かれる歴史の限界、困難に対する考えをある程度まとめるというのが狙いです。少なからず歴史のある一面をそれによって描くことが出来ればと考えています。

と、当てにならない見通しを立てて少し安心できたところで続きです。前回はこの世からの完全な消滅を実現しようとする強制収容所、絶滅収容所の触りを紹介しました。このような「痕跡の消失」による歴史からの消滅を実現する為には収容所内の情報を完全に遮断し外部の世界との完璧な隔離を実現する必要があります。勿論、そのような収容所と外部の完全な隔離を徹底的に全体主義的権力者は追求していましたが、同時に以下のような相反する状況があったとされています。少し長くなりますが引用します。この点に二重の意味での語ることの不可能性を実現してしまう要素があるとされています。

さらに別の、ある意味ではより厄介な問題がある。アーレントが『全体主義の起源』で、強制および絶滅収容所の犯罪の「自動安全装置」と呼んでいたものがそれである。彼女によれば、全体主義的権力者たちは、一方では収容所的世界の「完全な隔離」を徹底して追及しながら、奇妙なことに、他方では「全体主義の大量犯罪が暴露されること」を「それほど気にしなかった」。なぜか。それは「犯した罪の途方もなさそのもののために、犠牲者―彼らの申立の真実性は人間の常識を侮辱する―よりもむしろ殺人者―彼らは偽りの言葉で自分の無罪を誓う―の言葉の方が信じられてしまう、という結果が目に見えているから」である。「正常な人間はあらゆることが可能だということを知らない。」(ダヴィッド・ルッセ)―つまり「<可能なもの>の深淵」を知らない。「生者の世界」の常識、規範、日常性などから成る「正常な世界の正常性(Normalitat《最後のaはウムラウト》)」は、「全体主義の支配領域で行なわれている様々な事柄を、それについての記録やフィルムやその他の証拠を否定しようもなく眼前に突きつけられているときにさえまったくありえぬこととみなす」ほどだから、「生き残って見て来たことを語る」のが一人であれ多数であれ、彼や彼女の証言はこの壁にぶち当たって「忘却の穴」に突き返される。
(中略)
その結果、これらの証言は不可避的に、「人間の言葉の世界の外にあるものを言いあらわそうとする絶望的な試み」とならざるをえないのであり、聞き手のみならず語りて自身が、「まるで悪夢を現実と取り違えたとでもいうように」「自分自身の真実性の疑惑」に捉えかねないのである。

以上は言うまでもなく前回紹介した高橋哲哉さんの論文、「記憶されえぬもの 語りえぬもの」からの引用です。(pp.226-227)ここで言われていることに対して素朴な疑問を感じるかもしれません。「全体主義の支配領域で行なわれている様々な事柄を、それについての記録やフィルムやその他の証拠を否定しようもなく眼前に突きつけられているときにさえまったくありえぬこととみなす」という部分に関して「そんなことは有り得ない!!」と声を大にして言いたい衝動に駆られる人が多いのではないでしょうか。私も少なからずそう考えました。しかし、前回のゴビ砂漠のど真ん中での地震の例ではありませんがこのような虐殺を出来事としてあるのは認識出来たとしてもそれはまだ歴史的にその出来事を語ることが出来た、ということにはならないのではないでしょうか。

「忘却の穴」に関してどういう風にこれを読んでいる人が感じるか、これは私には少し予想が付きません。歴史というものに対して少なからず考えを持っている人達がこの「忘却の穴」をどう考えるかというのは個人的に興味が湧くところです。当然「忘却の穴」を出来事を神聖化し政治的なレベルで利用するものとして批判的な論者もいます。この点については先で触れることになると思います。

さて、高橋哲哉さんの論文の後半ではクロード・ランズマンの映画「ショアー」に顕在化している証言の不可能性を通して「忘却の穴」についての考察が進められます。この「ショアー」という映画はホロコーストを運良く生き残った人々の証言を九時間半という長大な時間にわたっておさめた映画です。「ショアー」というのは「災厄」という意味のヘブライ語です。私はちなみにこの映画を見たことがありません。見たことのない映画について語るのはどうも気が引けるのですが、高橋哲哉さんの解釈をもとに話を進めたいと思います。

「ショアー」の冒頭のシーンをこの論文で読むことが出来ます。映画を読むというのも変ですが。またまた長くなるのですが引用します。

『ショアー』の冒頭。初老にさしかかったと見える一人の男が渡し舟の舳先にすわり、鬱蒼たる緑を映す川面をゆっくりと運ばれていく。そして林間の一本道をしばらく歩き、やがて広々とした空き地に出ると、一瞬そこに立ち尽くしてこうつぶやく。
「見分けがたくなってしまったが、でもここだ。ここで人間を焼いていたのだ。大勢の人間がここで焼かれた。そう、確かにここだ。……だれ一人二度と戻ってはこなかった。 ここにガス・トラックがやって来た。二つの大きな焼却炉があった。そしてこの焼却炉に屍体が投げ込まれ、炎が天まで立ち昇っていたのだ」。
「天まで?」と念を押す傍らのランズマンにうなずいて、男は続ける。
それを物語ることはできない。だれもここで起こったことを想像することはできない。そんなことは不可能だ。だれもそのことを理解できない。わたし自身、いまでも……。
自分がここにいるとは思えない。いや、そんなことはとても信じられない。ここはいつもこんなふうに静かだった。いつも。毎日二〇〇〇人の人間を、ユダヤ人を燃やしていた時も、同じように静かだった。叫び声も聞こえない。誰もが自分の仕事をしていた。それは静かなものだった。穏やかなものだった。いまと同じだった。
(pp.229-230、ただし、下線による強調は私によるものです。)

この部分で語っているのはポーランドのヘウムノに造られた最初の絶滅収容所からのたった三名の生還者の内の一人であるシモン・スレブニクです。下線で私が強調したところにこのスレブニクが直面している「忘却の穴」の深刻さが出ています。「いまと同じ」という言葉には「痕跡の消失」が、そして「だれもそのことを理解できない」という部分には「自動安全装置」が。

ランズマン自身もこのような「この歴史を物語ることの不可能性」を最初に置くことによって映画を作ったことを明言しています。今回もかなり長くなったのでこの辺で取り敢えず中断したいと思います。こんな中途半端な終わり方ばかりですが。次回は今までの「忘却の穴」に関することを踏まえてもう少し私自身の考えていることを言いたいと思います。このままでは下手糞な要約だけに終始してしまいそうですからね・・・(^^;

そんなわけで今回のはじめに立てた見通しは脆くも崩れ去ってしまう感じです。てへっ。













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