トップページへ!
徹歴序文。徹歴の始まりはここから
徹歴案内図。徹歴に初めて訪れた方はご参考に
徹歴の常連たちの紹介です。あなたも常連になったら書こう!
徹歴の主宰支部長の部屋
徹歴瓦版。最新の歴史ニュースをキャッチ
ゲストブック。来訪の記念にどうぞ
徹歴掲示板
徹歴フォーラム
徹歴チャット
徹歴イベント掲示板
徹歴伝言板
徹歴リンク
よもやま社中








徹歴ラウンジ
徹歴図書館
徹歴研究所

都市としてのヴェネツィア
by 夜なべ紳士



1.地盤

 都市は人工物の代表である。だが、都市が立っているところ、即ちその地盤は人が造ったわけではない。それは都市ができる前からあったのであり人が後からやってきてそのまま利用したのである。しかし、都市ヴェネツィアを支える地盤の多くは自然の力によって形成されたものではなかった。それは人が造り出した物であり、100%人工物とは言いがたいもののほぼ人の力により築かれた物であった。

 人が居住するために最初にしなければいけなかった事は建造物を支えるに足る強固な地盤を築くことであり、地盤造成の最初の作業は地形選定であった。現在、ヴェネツィアがある所はラグーンと呼ばれる干潟であるが、それは昔も変わらなかった。いや、むしろヴェネツィアができる前のほうが干潟然としていたのかもしれない。地盤となったのはその場所にある海面から地面が顔を出している島状のところ、選ばれた所に材質の硬い杭を打ち込みその上にイストリア等の周辺地域から運ばれた石材をつみ地盤とした。

 居住するには多大な労力を必要とするこの地に人が住み始めたとされているのがローマ時代末期であったといわれる。伝説として語られている事によるとアッティラのイタリア侵入が陸と海が入り交じったラグーナ、将来のヴェネツィアへの避難がヴェネツィアの建設の最初の契機となっている。しかし、アッティラ以前にも人が住んでいた痕跡があったことが今では明らかになっているので、ローマ時代末期がヴェネツィアに初めて人が住み始めた時代ではなかった。アッティラ侵入に代表される蛮族侵入の時代はヴェネツィアに大規模な移住が行われ出した時代と考えるのが妥当である。こうした避難・移住に対して、元々の島民であった漁師がウェニ・エティアム「どんどん人がやってくる」と発言したと伝えられている。漁師が移住者に向かって言ったその言葉は移住者の名称となり、そしてヴェネツィア人の由来となったという。

 ヴェネツィアの地盤は人工故にその上に建設される建物を想定して造られる。そのため建物を改築する場合、地盤と連結している土台を変えることはできず、建物の基本構造を大きく変更するのは極めて難しく、土台を活かして新しい建築物に改装していくのが大半であった。

   2.交通

  ヴェネツィアには二種類の廊下がある。一つは道路、もう一つは運河である。この都市の立地条件から運河は重要な役割を果たしている。運河はかつて物流の中心であったばかりではなく、主要な交通路でもあった。そのため、ヴェネツィアの発展は当初運河に沿って行われていった。

 中世ではある程度裕福な人々、特に商人は運河沿いに家を持つ必要があった。商人はその住居を商館として使用していたので、大概職場としての機能を併せ持ち、一階を倉庫兼取引所として使用していた。そのため、住居から直接物流の中心である運河にアプローチできることが必要不可欠であった。

 そして、その運河の多くが複雑な曲線を描いているのがヴェネツィアの特徴といえる。それはこの運河の本来の機能である水路のためである。ヴェネツィアがある干潟地帯はブレンダ川の水が注ぎ込まれる所に位置し、アドリア海の海水が流れ込む所でもある。つまり、川の水と海水が攻めぎあっている地帯にヴェネツィアが聳え立っているわけである。ブレンダ川は水と共に土砂を運び、その土砂が運河に堆積されると、水が滞流しそのうち腐り始め疫病を引き起こす原因となりかねない。そうした事態を未然に防いでいるのは日に二回ヴェネツィアに流れ込む海水と言う自然の浄化装置である。この浄化装置の機能を殺がないように配置されているのがヴェネツィアの運河なのである。そして、この水との戦いはヴェネツィアにとっては死活問題であり続けている

 道路は運河より遅れて整備された。ヴェネツィアが運河沿いに発展したのが大きな要因である。そのため、運河沿いの建物にとって道路は裏手になり、運河が正面となる。教区ごとに各コミュニティーが発展し始めたのだが、コミュニティーの発展に伴いコミュニティーの求心力を高める道路と教区の中心である広場が発達しだした。カナル・グランデ(大運河)にかかる唯一の橋であったリアルト橋が一部釣り上げ式の木造から固定型の石造へと変わった十六世紀、運河の役割は低下しだす。其の現われがが明るい空間を醸し出すことから好まれ、舗装されるようになった運河沿いの道である。従来は運河と住居を隣接させる必要性があったのだが、十六世紀になるとヴェネツィアの交易都市としての役割が低下し始め、物流としての運河と倉庫を併せ持つ住居の必要度が減少した。

   3.教区

  都市ヴェネツィアにとって部屋に当たるのが教区だろう。教区の開発は九世紀初頭に始まった。群島ともいって良い干潟地帯の各島にそれぞれ有力家が教会を建て、そこを中心に開発が行われ集落が形成されていった。そのため、ヴェネツィアは小さな集落がそれぞれ開発を行った末にできた集合体と言える。教区の中心には教会と其の前面に広がる広場が存在する。広場は地理的に中央に位置すると言うだけではなく井戸や教会等の人々の生活に欠かせない施設が集合していたので住民生活の中心ともなっていた。各教区はこの広場を中心に構成されていた。

 教区は其の形成の過程故に自立的で多くの機能と階層を抱える物であった。つまり、貴族と庶民が混住し、教会や住居・商業・スクォーラ(相互扶助同信組合)の建物が混在すると言うことである。中世ではこうした教区が「自己完結型」の社会を形成していたと考えられる。ヴェネツィアの教区は大概小島から構成されていたのだが、その島である教区と教区を結び付ける橋が架かるのはかなり後の事であったし、一貫した都市計画がなかったため、隣の島の道路と橋で結び付けるのも一苦労であった。無理にまげて結べ付けられた「ポンテ・ストルト」と呼ばれる橋が存在するのもそのためである。しかし、そうした教区における混住・混在は教区全体の同質性を意味する物ではない。貴族は運河沿いに住居を構え、其の住居を商館として取引きや倉庫に使用していた。庶民が地裏の集合住宅で生活していたので教区内での住み分けは厳然と存在していたのである。また、教区毎にも特徴があった。諸官庁が立ち並ぶサン・マルコ広場の周辺の教区では貴族や書記官の居住比率が高く、経済の中心であるリアルト市場に近接する教区も貴族の居住比率が高かった。これはヴェネツィア貴族が商人貴族だったことによる。逆に、産業の中心アルセナーレ(国営造船所)のあるような都市の周縁部では庶民の居住比率が高くなっていた。このサン・マルコ広場、リアルト、アルセナーレがヴェネツィアの三極といえるものとなっていたのである。

 ここまで、概略的ではありますがヴェネツィアの都市構造を見てきました。ヴェネツィアの特徴は地形的に特殊な場所にある言うことと、其の地形に大きく制約される形で都市を形成・発展させてきた事による物である。其の構造は自己完結的な教区が集合していると言うことで多核的とも言えるが、リアルト市場やサン・マルコ広場、アルセナーレと言った核となる場所が「部分」である独立性の強い各教区を都市と言う「全体」に帰属せしめているのである。













徹歴のコンテンツの著作権は徹歴に属します。
copyright. tetsureki.com all rights reserved

tetsureki@infoseek.jp


2ch勢い
2ch