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室町御所の建造費はおいくら?

2003年10月31日から同年11月25日の期間に歴史フォーラムにおいて、愛忍者さんとくらくらさんが語り合った歴史談義です。実証的かついろいろな話題を含んでいて面白いのでここに掲載させていただきました。
掲載にあたり、お二方に厚くお礼申し上げます。

 愛忍者さん

 くらくらさん

室町御所の建造費はおいくら?
 昔、甲斐の才兵衛と名乗ってよく出入りしてたもんです。阪神タイガースの応援に忙しく歴史を疎かにしていました。とはいえ、道頓堀に大阪人が飛び込むのは1560年頃に堺で流行った補陀落渡の変形だ、とか云って戯れていましたが、兎も角お久しぶりで御座います。

 早速本題に参ります。
 先日、儂は読書してたら、織田信長が本願寺に矢銭五千貫、泉州堺に二万貫を要求した事に触れた処を見まして、思い出したんです。そういやぁこの野郎、朝廷に銭一万疋を納めやがったな、と。その後、室町御所も造営もしてます。
 一万疋を納めて勤皇家、室町御所造って忠臣という訳ですが、もしかして信長様、御自分の腹は全く痛んでないんやないでしょうか。室町御所造るのに建造費幾らかかるのか解りませんが、誰か知ってはりますやろか。
 仮にあれが学校の校舎や芸能人の豪邸くらいの金額やとすれば、五億円もあれば建ちますか。イチローの家って五億円でしたよな。
 なら、五億円って何貫なんでしょう。

 そいで、ヒントでもと思て、色々勘定してみました。
 鐚銭とか三銭とかは無視して、貨幣の価値といやぁ一貫は百疋、一疋は十文って事になってます。換算してみますと、朝廷に納めたのは百貫って事になります。二万四千九百貫残りました。

 米一石は中世四百年通しても五百文(五十疋)〜千五百文(一貫五十疋)と、あまり大きな変動はなかったみたいです。西国の方が安いらしいから、西国八百文、東国千二百文としましょうか。室町御所は京都なんで西国の一石八百文換算にします。
 足軽の年俸が一日米五合食う計算で一石八斗だから、一貫四十四疋。一石八斗を今の米価10kg四千円前後で勘定しますと年収三十万円くらいでしょうか。月収二万五千円とは、えらい辛いですな。米が今より十倍高かった感覚かな。なら都合、米貨換算で一文二百円、感覚的には一文二千円という感じでしょう。
 因みに豊臣時代で六匁筒(鉄炮)が米九石したそうなので、銭換算で七貫二十疋、米貨換算で百四十四万円、感覚的には千四百四十万円になるでしょうか。テレビ局のカメラくらいの感覚ですな。

 で、御所の(仮)五億円です。米価換算やと二千五百貫、感覚的に二百五十貫で建ちますな。朝廷と将軍に恩を売って信長様は+二万二千四百貫〜+二万四千六百五十貫の儲け。全くポンポン痛くないという結論が導き出されました。

 で、フォーラムに書いた由縁なんですが、以上、何か変な勘定してませんやろか。


Re: 室町御所の建造費はおいくら?
勘定の内容にはまったく異論ありません。大変面白く拝読いたしました。

 1397年に足利義満により建設が始められた北山第(きたやまてい)が比較対照として一定度参考になるかと思われます。この1397年という年は足利義満の出家後2年というときにあたり、義満自身は北山第で政務を執り行うことを企図していたものと考えてよいでしょう(『室町の王権』今谷明、中公文庫)。政務を執り行う空間は寝殿を中心とした御所方で、その西方の付属的宗教施設として舎利殿(いわゆる金閣寺)が建てられていたものと思われます(川上貢「金閣と銀閣」『日本美術全集15』)。相国寺の僧、瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録』によれば、「工費は造営の途中ですでに28万貫、完成時には100万貫を超えるだろうといわれるほど、空前の巨額であった。」(『大系日本の歴史6』永原慶二)とのことです。

 さて、室町時代の物価の変動については、しらかわただひこ氏のホームページ「コインの散歩道」に「中世の物価」というたいへん興味深い記事が掲載されていますが(アドレスは下記)、14世紀末と永禄−天正年間の間では米価の分散にかなり差がみられるものの、比較すること自体は十分可能なようです。ここで気になるのが本願寺・堺から集めた2万5千貫という額ですが、北山第の建設途中の10%以下、、、当時の社会状況、朝廷の状況、出資者の性格の点で安易な比較はできないでしょうが、うーん、、、どうでしょうかね?

@建築物によって自らの威信を誇示する、A公共事業による雇用の創出で京畿社会の安定を図る、などの意図まで(仮に)考慮するなら、少なくとも2500貫(まきあげた額の10%)しか出さないことはないような気もしますか?(芸能人の豪邸よりはいいのを造りたいような気がしますが、、、贔屓目ですかね)

http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/J020.htm


京都一石千五百文、奈良一石八百文
 御返事有難う御座いました。
 後で調べたら一石の米価は京都で千五六百文前後、奈良では八百文と少しという事で、儂の試算よりも実際は高かったみたいです。
 でも京都と奈良の間にある堺の米価って幾らなんすかね。ま、間とって千二百文くらいか、自給してないから京都に近くて千五六百文前後だったかでしょう。仮に千五六百文とすると、五億円は五千貫くらいになりますか。
 室町御所は正月に三好三人衆が仮御所だった本圀寺が急襲された事を受けて、二ヶ月間の突貫工事で出来た御所でしたし、後に二条城を別に作っている事ですので、そんな上等な普請もしてなかったんじゃないかと思いますが、それでも矢張り御所、人海戦術で滅茶苦茶高くついた気もしないではないです。人足一人の日当が二十文として、二月で一貫二百文、五百人雇えば六百貫ですか。
 結構要りますな。何時の時代も人件費が一番お高いようで。そういえば明智十兵衛の朝倉時代の俸給が五百貫でしたか。

 単純に考えて室町御所は北山第と違って金閣寺がなく(-50%)、豪華に造る必要も余裕もなかった(-20%)ので、仮に-70%で出来るとすれば、三十万貫の勘定(それでも五千貫=五億円計算で三百億円!)。三十万貫を信長が出せたかどうか考えてみます。
 信長は尾張美濃の領主で、生産量は太閤検地の計算で百十一万石=百六七十万貫。四公六民だから、年貢は総生産の四割、およそ七十万貫。当時の織田軍が実際に動員出来た兵数が三万人。三万人の足軽の年収は五万四千石=八万七千貫くらい。色々込みで十万貫と考えていいでしょう。残り六十万貫。
 なんか難しそうですな。月収三十五万円の人が家賃五万円払って、まだ十五万円の鞄を女に贈るような感覚ですか。信長だって鉄炮も買いたいし城の普請もしたいですからなぁ。柴田君や丹羽君や佐久間君にだって小使いやらないといけないし…。
 前に知合いのお寺さんから聞いたんですが、仁和寺とか大覚寺とかの本堂を今建て替えるとすると、だいたい二三十億円要るそうです。今は材木が高いからそんだけかかるらしいんですが、仮に御所が全体で三十億円だとすると、五億円=五千貫計算で丁度二万五千貫。ちょっきり堺本願寺から巻き上げた金額に符合します。案外この辺が近いかも知れませんな。


室町御所の造営費について
 現代における仁和寺・大覚寺の建設費用から往時の造営費を推測する観点には一定度の有用性を認めます。その他、以下のような観点に注目いたしたく存じます(本稿は下記高橋氏の年表に多くを拠ったものであることをお断りします)。

1,前例
 天文12年に織田信秀が内裏の修理代として拠出した額が40万疋
(4千貫)とのことです。ここいらあたりが推定される金額の下限ではないかと考えます。

2,「矢銭」の性格、当該期の収入総体
 織田軍の上洛は永禄11年9月26日(以下日時はすべて旧暦)。上洛直後の織田軍の軍事行動ですが、10月6日までには山城・摂津・河内・丹波・近江の帰趨が織田方優勢のうちに収束しつつあったわけですが(『多門院日記』、同日池田勝正服属)、10月中旬までは大和方面での軍事行動は依然活発でした(10日森屋城11日窪城攻略)。畿内諸勢力からの金銭徴収は主に永禄11年10月からみられるようになりますが、上記の如き経過から、徴収の名目は当初確かに「矢銭」であったようです(『法隆寺文書』によれば10月6日同時に「家銭ヤゼニ?」上納の命令がでています)。、、、矢銭を課されたのは堺・本願寺のみでなく、法隆寺など「寺社方ノ繁盛ノ所」にも課されていたこと(『足利季世記』『細川両家記』)に留意したいと思います。10月26日信長が岐阜へ帰還するまでに情勢が安定化した後、徴収の名目は「制札銭」「御礼銭」へと変化していきますが、徴収は600貫、1000貫といった単位でなされているようで、上洛後の織田軍に流れ込んだトータルは2万5千貫を一定度オーバーしているものと推測します。

3,当該期支出の総体
 御所の修築と同時期に内裏も修築していること。また、永禄12年以降も織田軍の軍事行動は活発であり(1月本圀寺の変、4月15日摂津入江城・山城普賢寺谷城攻略、、、)、「矢銭」の名目から軍事費に費やされた分はご指摘の通り一定度想定する必要がありそうです。永禄11年10-11月頃の兵5000の京への駐屯費も含め、該当時期の出費が総体としてかなりな金額にのぼることは想像に難くないでしょう。

、、、そうなってくると、仮に2万5千貫という数値がひとつの目安である(同時代のヨーロッパと異なり、システムとしての国債が発達していないことを重視したいと考えます)にしても、裏付けとして以下の視点が有用ではないでしょうか?

@ 原典から造営過程に細かくあたり、数値的な情報があれば利用していく観点;具体的には、人件費+資材費が総費用だとして、人件費(延べ動員数×日当;愛忍者様も挙げておられましたが)と資材費の関係でなにか参考資料はないか?;この点、スレッドを別にたてて考察を進めましょう。

A 当時の織田政権、ないし信長自身にとり、御所造営にどの程度の重要性があったかの重みづけの評価;突貫工事とはいえ実に11カ国3000-4000人の人夫を動員し、また信長自ら普請場所に長期滞在していた(『言継卿記』)ことに鑑みれば、その重要性はかなり高かったのではないでしょうか。

 (御所の着工は永禄12年1月27日前後、将軍足利義昭の移徙が4月15日前後のようです。普請は石垣からなされていて、造営は旧邸の修築などを含まず、抜本的なものと想定して大過ないでしょう。)

参考ホームページ;
1,Household Industries(「天下統一期年譜」2001年高橋寿拓氏)
http://www.netlaputa.ne.jp/~house/index.htm

2,信長年譜(2001年遙雲軒)
http://www.atjp.net/tenka/  

3,尾張の城(作成者?)
http://members.at.infoseek.co.jp/twt/


二条新第の実相
 以下、二条新第(二条御所)の実相について考察を進めます。;なお、今谷明氏の2著作『戦国時代の貴族』『信長と天皇』(共に講談社学術文庫)に負うところ大です(引用文は特に出典がない場合今谷氏のものです)。

1、同地の使用状況
 もともとは斯波氏の第宅、1558年より足利義輝が将軍の別邸として使用(いわゆる「室町第」)。1565年義輝の暗殺に伴って炎上。;やはり信長による築造開始時点では何もなかった、としてよいでしょう。
# なお二条新第(ここでいう室町御所のことですね)がその後どうなったか、ですが、「天正元年(1573)の幕府滅亡以後荒廃に任され、(中略)早くに安土時代に遺跡は崩壊し、地中に埋もれてしまった。」ということで、徳川家光が建てた二条城とは年代的には重複しないようです。

2、規模・構造、建築物の性格
 幸い二条新第の規模・構造の大枠は、1974年の発掘で明らかになっています(烏丸線内遺跡調査会烏丸レポート発行部会編『烏丸レポート5』)。今谷氏の抜粋によると、「南北約390メートル、堀の幅16.7メートル、石垣の高さ3.8メートル」。周囲を堀と石垣で囲んでいたようです。『言継卿記』(三月十一日条)をみる限り、西門と南門は櫓門であったようです。なお石垣は近江観音寺城他の先例があるわけですが、フロイスが「工事は日本に於ては嘗て見たることなき石造とするに決せしが」と述べている(『耶蘇会士日本通信』永禄12年6月1日フロイス書翰)ように、同時代ではまださほど一般的な存在ではなく、技術的に余計にコストがかかっている可能性を考慮する必要がありそうです(『言継卿記』では工期途中で崩れたりしていますね)。
 信長公記の記載(巻二「公方御構御普請の事」)に、「信長公は今度の事件から六条御所の防御に不安を感じ、新しい御所の造営を命じた。」(以下、信長公記の訳は『或暇人之間』参照)とあります。「三つの堀と数箇所の新たなる稜堡」を備えた堅固な要塞としてフロイスも表現しており(『耶蘇会士日本通信』天正元年5月27日フロイス書翰)、「城塞をかねた義昭の新第」として二条新第を捉える解釈は、定説として扱ってよいでしょう。
 
 なお、庭園や絵画・工芸などオプションの算定をどうするかですが、もとよりこの方面の評価は困難を極めるのでなんともいいようがないのですが、「御殿の内装には様式通りに金銀をちりばめ、庭には泉水・遣水・築山が構えられた」(『信長公記』)ものの、かなり派手に「洛中洛外の名石名木を徴発」したり、「荘厳具を大寺院から徴発した」り(『日本西教史』「大体は既に成り、唯欠く所のものは内部の装飾のみ。(中略)故に日本中最も有名なる仏閣よりこれを取り、直に宮殿の用に供せり。」)しているようなので、案外金額がかかっていない?印象はあります。

3、構築工程・動員人数
 『言継卿記』により一定度わかるわけですが、今谷氏のまとめ方でいえば、

 1月27日着工・3月7日全石垣と土台の完成・4月17日大略竣工

という流れで捉えられます。動員先は史料により11カ国から14カ国までブレがあるようです。動員数についても史料につき大きく異なるわけですが、「日々数千人の普請なり」(『言継卿記』2月9日条)から、「通常2万5千人が働き、少ない時でも1万5千人を数えた」(『完訳フロイス日本史2巻』)まで、、、。上記考察もあわせ、4ケタは考えておいていいのではないでしょうか(発掘結果の規模から土砂量を推測し、必要人数を計算する、大林組ばりの方法は有効そうですが)。大工についても「洛中洛外から呼び寄せられた鍛冶・番匠」(『信長公記』)がかなりいたようですが、ホームページ「コインの散歩道」をみる限り、大工など技術職は人夫より経費がかさみそうですね。

参考ホームページ

或暇人之間
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/index.html

Web季刊大林
http://www.obayashi.co.jp/kikan/shiro/index.html


人件費と資材費の比率について
 前近代建築普請における人件費と資材費の比率についてですが、もとより正確な値が出せるはずはないのですが、参考ぐらいにはなるのではないか、と考えているのが、江戸時代の資料です(以下、小沢詠美子氏『お江戸の経済事情』東京堂出版を参照しました)。

1、19世紀初頭、三井越後屋芝口店土蔵1箇所の普請代
 人件費が普請代全体の30%以上60%以下(予測できる最低値と最高値;文中から読み込む必要がありますが、40-50%台でまとまりそうです)
2、18世紀前半三井家穴蔵の普請代
 大工の手間賃が全体の約8%
3、19世紀江戸四谷界隈の上水道工事
 人件費が全体の25-37%

穴蔵は水腐れを防ぐため、資材費がかなり高いようです。、、、いかがでしょうか?城郭の普請代全体を考える場合(荘厳具の評価を除けば)、最低を人件費の2倍とし、上限はうなぎのぼり、、、とりあえずは4倍ほどでみてみるのが無難ではないでしょうか。

あと、信長自身がどれだけこの普請を重視していたかについては、前記の通りです。私としては予算は主体的にこちらに振り向けられた(他の予算との兼ね合いはとりあえず考えなくとも良い?)とみたいところですね。

 さて、、、計算ですか?時間をかけましょうか。


結論;普請代の計算
 それでは、私なりに普請代の計算に入りたいと思います。

1,大坂城本丸復元からの工費推定
1−1,上限
 『季刊大林』によれば、大坂城の総工費は、土木と建築をあわせ、約780億円です。大坂城本丸の敷地面積は、二条新第のざっと5-9倍(ざっぱですが)、、、工費を土地面積に比例させて考えた(坪当たり工費という考え方ですね)場合、約85-160億円という数値が出てきます。
 上限としてこの値を挙げましたが、かなりの過大評価と考えています。詳細は『Web季刊大林』をご参照頂きたいのですが、
@土砂運搬および石材運搬は二条新第の場合復元大坂城よりかなり(おそらくは圧倒的?)労働量が少なくて良いように思われること(遠距離輸送他の理由による)、
A建築物については御殿類とその他で済むであろうこと、
B荘厳具の経費に差があるであろうこと、
の3点が根拠です。

1−2,下限
 堀から掘削した土砂の総量はおよそ7.5万−10万立方m、ひとりあたりの土砂運搬能を1日あたり約5.6立方m(『戦略戦術兵器事典日本
戦国編』学研1994年所収の数値は24時間働いたと仮定して、16.8でした)として、かかった延べ人数は約13500-18000人、、、仮に16000人として、1人あたりの日当を20文とすると約320貫。石積み費用を土盛りの約10倍の経費(『季刊大林』の比率を参考)として、こちらは3200貫。建築費用は天守閣全体・御殿の半分を建てなかったとして、土木費用の25%と算定した場合900貫。しめて総計約4400貫+α。
 この値も下限ではありますが、かなりの過小評価でしょう。最大の問題は土木費と建築費の比率を固定的に出しているわけですが、『季刊大林』の算定では建築費のほうは荘厳具以外あまりつまりそうにないと考えています。、、、というわけで。

1−3,折衷案
 土木関係をしめて約4000貫。建築費は落とさず200億−(天守・御殿半分)=120億、この10%ということで、約11-24億円。;京米価換算で1万1千-2万4千貫とし、しめて約1万5千-2万8千貫。、、、以下、他の換算法で;

2,動員数×平均日当
 『言継卿記』の記載から1日あたりの動員数を仮に3000人とし、3000×日当(20文)×普請日数(60日)×4(人件費+資材費/人件費)=約1万4千貫。なおこの人数ですが、土砂運搬の経過を『言継卿記』『季刊大林』それぞれの工程表とつきあわせる限りでは、妥当な数値と考えます。

3,日光東照宮との動員数の比較から
 二条新第において動員された延べ人数である約18万人という数値は、『日光東照宮大権現様造営御目録』記載の動員数(大工・木挽・雑役あわせて450万人)の約25分の1、、、東照宮の普請代は米価換算で約456億?(同目録には米価の記載もあり)とのことですので、ここから計算すると約18億円(1万8千貫?)。

 いかがでしょうか?大雑把にいって1万から3万貫(10億-30億円?)の間、というのを本稿での結論にしたいと思います(石垣に関し、ある程度の上方修正が必要かもしれませんが)。同時になされた内裏の修築費を1万貫以内と仮定し、両者あわせて4万貫はいかないか?、、、徴収された「矢銭」総額の、おそらくは枠内ということになりそうですかね。

注1;地価については換算していませんが、おそらくは最大の所有者である真如堂については代わりの土地を宛っているので、おそらく信長自身の金銭的な支出はないものと思われます。本考察で最大の難点はおそらく、「本当に人件費を払っているのか?」という点にあるとおもわれますが、残念ながら筆者の力量を超しています。


ぼんやり計算違いしてました
 こないだ米を買ったんで、もしかすると、と思い、米価の正しい値段を算出する為に容積と重さを量り直してみました。やっぱり紙の上での勘定が間違ってまして、一斗およそ15kgという事で、標準米で五千円前後でした。間違えた原因は一俵の値段を容積にばらつきがあるにも関わらず、うっかり均一と思ってしまい、更に途中で何度か計算間違いを犯した事でしょうか。
 兎も角、一斗五千円なら一石五万円。焼き肉屋で米一合頼むと五十円ですから、焼き肉屋の米って意外に適正価格だったんですな。足軽の年俸が一石八斗=九万円。厳しい。一貫およそ三万円〜三万五千円という事で、五億円は一万五千貫でした。


上記にありますように計算違いしてたので…
 上記に書きましたように計算違いしてたので、訂正しつつ考えてみました。

 今度知合いの寺に行って昔の勧進帳なんかあれば見せて貰おうと思っとるのですが、取り敢えず先に挙げた「仁和寺や大覚寺を建て替えた場合、およそ二三十億円」という話を採用し、かつ計算間違いを訂正しつつ当てはめると、一億円=三千貫ですから、六万貫〜九万貫となります。但し、現在では柱一本三百万円というような篦棒な資材を使い、重機の貸賃を含み、稀少な技術者に特別な日当を支払っての二三十億円ですから、資材安く、重機もなく、それらの建築が特殊技術でなかった当時、現実的には二三十億の半分(寺院建築は普通の二倍ってのが大体の相場ですんで)、三万貫から四万五千貫くらいでしょうか。重機の替りが人力ですんで、別計算しました。

 また、茨城県伊奈町にある第三セクター「ワープステーション江戸」をサンプルに考えてみます。9ヘクタールで総工費二十八億円の江戸の街を再現した施設なんだとか。NHK大河ドラマの撮影にも使われたそうですから、可成り出来がよろしいと思われます。室町御所の面積がこの1/20として、室町御所を第三セクターで造ると一億四千万円、然し所詮はっつぁんや熊さんの住む江戸の街ですから(そういえば最近の民放の時代劇、セットが綺麗すぎてゲンナリしますな)、室町御所がこの三倍豪華だとすると、四億二千万円。永禄年間換算で一万二千六百貫。
 織田信長が第三セクターとして室町御所を建てると(堺屋太一っぽい発想ですが)、一万五千貫以下で建つ、という事になりましょう。

 以上、建造費は寺院換算で三万〜四万五千貫、第三セクター換算で四千〜一万三千貫。

 人件費に関しては全く同じ『戦略戦術兵器事典日本戦国編』を持ってましたんで、八時間労働計算で一人5.6立方m、40日くらいで七万〜十万立方m掘ったわけだから12500〜17857人。まぁ、全く同じ計算になりました。よって四千貫。これは恐らく事実と大差ない数字だと思います。

 故に当方では寺院換算三万四千〜五万貫乃至八千〜一万七千貫という勘定になりました。真ん中とって三万三四千貫あたりが妥当ですか。
 これに後ほど、もし応仁の乱以降、慶長までの寺院の勧進資材帳が見つかったならば、更に佳い数字が出せるかと思います。


私も訂正です
私の数値を換算し直すとそれぞれ、

@ 折衷案で8万7千貫(ただし、二条新第の広さを約8ヘクタールとした場合)
A 動員数からの類推で1万4千貫
B 日光東照宮からの類推で5万4千貫

ですね。Aについてはもっと高くなる可能性は考慮されるので、5−9万が目安となりますか。

 二条新第の広さですが、約8ヘクタール(南北が約400m;東西の長さですが、報告書が手もとにないので自信がないのですが、下記サイト掲載の長・短軸比を参考にする限り、200mほどではないかと思います)と思われますので、ワープステーションとはあまり変わらない広さではないでしょうか、、、。だとすると愛忍者様の第3セクター換算では7.5万−22.5万貫になりますか(寺院換算とあわせ、5−8万貫の推定に近くなってきますね)。

 だんだん妥当な値に近づいてきた様な気もしますが、、、。この値だとどうでしょうか、やはり多少は自腹も切らないといけなそうですね。

 勧進資材帳ですか、確かに現状では資材代についての推測が歯切れが悪くて、、、期待してお待ちしています。

http://www003.upp.so-net.ne.jp/hata0913/yamazaki6.html









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