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卑弥呼に関して
出典は全て魏志倭人伝からです。
卑弥呼に関しては国内に記録がないため、これだけが頼りです。でも海を隔てた中国の歴史書なんで、どこまで正しいかはわかりません。一説には方角が間違っていると言われています。とりあえずそれは省きました。

卑弥呼とは
原文
その国、もとまた男子を以て王となす。とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること年を歴(ふ)。乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼といふ。鬼道に事(つか)へ、能(よ)く衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、卑千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入りす。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、を持して守衛す。

鬼道:呪術  夫婿:夫のこと  楼観:物見のための高殿。やぐらのようなもの :兵器


邪馬台国では、もともとは男の王を立てていたが、7,80年が過ぎ、国内が乱れ、戦争が何年も続いた。そこで諸国が一人の女子を王とした。名は卑弥呼といい、呪術を行い、多くの人がその占いを信じていた。年はとっていたが、夫はおらず、弟が補佐して政治を行っている。
女王となってから彼女を見た者は少なく、1000人の女を召使いとして近侍させている。ただ男が一人だけいて、飲食を給仕し、彼女の命令を伝えるため居所に出入りする。宮室・やぐら・城柵をおごそかに設けており、常に番人がいて、武器を持って守っている。
解説
卑弥呼は占い師だったんですね。当時占い師は神の言葉の伝達者として非常に畏怖されていましたから、卑弥呼の言うことは神の意見だと思って、みんな従ったのでしょう。卑弥呼は人前には出なかったようですね。その方が神秘性が増すからでしょうか。また卑弥呼は女王になった時、けっこう年をとっていたみたいですね。しかし召使いが1000人とはまたすごい(^^;

魏との交渉
原文
景初二年(239年)六月、倭の女王、大夫難升米(なしめ)等を遣(つか)はして郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せむことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、もって送りて京都に詣らしむ。
その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「・・・・・今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮(ゆる)し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。・・・・・」と。

−−−−この間、240・243・245年の交渉が記されています。−−−−

正始八年(247年)、太守王頑(おうき)官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)と素(もと)より和せず。倭の載斯烏越(さいしうえつ)等を遣わして郡に詣(いた)り、相攻撃する状を説く。塞曹えん史(漢字無し)張政等を遣わし、因りて詔書・黄撞(こうどう)をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りて告喩す。

天子:ここでは明帝のこと  太守:郡の長官  京都:魏の都・洛陽
金印紫綬:後漢の制では、天子の玉印黄赤綬を最高に、金印朱綬・金印紫綬(最高の大臣クラス)・銀印青綬となっていた。
狗奴国:邪馬台国の南にあるという国 黄撞:黄色の軍旗


景初二年六月、倭の女王が大夫の難升米らを帯方郡に遣わし、天子に謁見して朝貢することを求めた。帯方郡長官の劉夏は官吏を遣わして案内させて洛陽まで送らせた。
その年の十二月に、明帝は詔書を下して倭の女王に報じて言った。「今そなたを親魏倭王となし、金印紫綬を授け、封をして帯方郡の長官にことずけて送らせよう。・・・・・」

正始八年、帯方郡長官の王頑が現地に着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の王卑弥弓呼ともともと仲が悪く、載斯烏越らを帯方郡に派遣して交戦の状況を説明した。そこで、郡は塞曹擾史の張政らを遣わして、詔書・黄撞を難升米に授け、檄文をつくって狗奴国にさとした。

解説
帯方郡は今のソウルのあたりで、昔から日本と中国のパイプ役となってきました。絹織物や有名な銅鏡が魏帝から下賜されましたわけですが、卑弥呼は魏の力を借りて狗奴国をなんとかしようと思ったのでしょう。そして魏から役人と詔書・旗が届けられ、卑弥呼の作戦はうまくいったかにみえましたが・・・・・

卑弥呼の死
原文
卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩殉葬する者、奴卑百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々(こもごも)相誅殺(ちゅうさつ)し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与(いよ)年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。

径百余歩:直径約100歩。一歩はふつう1、5メートルと考えられているが、1、8メートル説、0、3メートル説もある。
殉葬:貴人の死に殉じて一緒に埋葬されること  宗女:一族の女  壱与:台与(とよ)説もある


卑弥呼が死に、大きな墓が造られた。直径が約100歩で、奴卑が100人あまり殉葬された。
その後男の王を立てたが、国中がこれに従わず、お互いに殺し合い、1000人あまりが死んだ。そのため卑弥呼の一族で13才の壱与という女子を女王とし、国中がようやく静まった。
解説
卑弥呼は死んでしまいます。大きな墓が造られ、召使い100人も一緒に埋められてしまいました。ちなみにその卑弥呼の墓ですが、奈良県の箸墓古墳がそうではないかと言われています。
その後男王が立ったようですが、やはり男では無理だったようですね。それにしてもわずか13才で女王になるとは・・・。

卑弥呼についてはこれでおしまい。









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