原文
(天平十一年)十一月辛卯、平群朝臣(へぐりのあそん)広成朝を拝す。
初め広成、天平五年、大使多治比真人広成(たじひのまひとひろなり)に随ひて入唐す。六年十月、事おわりて却帰(かえる)とき、四船同じく蘇州より発して海に入る。悪風忽(たちま)ちに起こり、彼此相失ふ。広成の船一百一十五人、コンロン(漢字無)国に漂着す。賊兵有り、来り囲みて遂に拘執せらる。船人或は殺され、或は逃散す。自余の九十余人、障(じょう)に著きて死亡す。広成等四人、僅かに死を免れ、コンロン王に見(まみ)ゆるを得たり。よりて升糧を給ひ、悪処に安置せらる。
七年に至り、唐国欽州の熟コンロン有りて彼に到る。便りに喩(ぬす)み載せられ、出で来て既に唐国へ帰る。本朝の学生阿倍仲麻呂に逢ひ、便(すなわ)ち奏して入朝することを得、渤海の路を取りて帰朝せむことを請ふ。天子これを許し、船糧を給ひて発遣せしむ。十年三月、登州より海に入る。五月、渤海の界(さかい)に到るに、適(たまたま)其の王大欽茂、使を差(つかわ)して我が朝に聘(へい)せんと欲するに遇(あ)ひ、即時同じく発す。渡海するに及びて、渤海の一船、浪に遇ひて傾覆す。大使岨要徳等四十人没死せり。広成等遺(のこ)れる衆を率い、出羽国に到着す。
コンロン国:「旧唐書」には林邑(インドシナ半島東南部の国)の南にあると記されている。
障:熱病の一種 阿倍仲麻呂:717年に入唐。帰国途中遭難して唐に戻り、朝衡と改名して唐に仕えた。詩人李白との親交でも知られている。 天子:ここでは玄宗を指す