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イギリスのインド征服 (1)
by 西表山猫



序  文


 戦前より、多くの人が近代を帝国主義の列強覇権競争時代で、そこから独立を維持するためには強大な軍事力を保有し無ければならなかった。と、繰り返し言われてきて、そこから、日本帝国主義の時代の擁護が成されてきた。だが、それを口にする人が本当に近代の帝国主義の植民地がいかに植民地化され、それに対する抵抗がどの様に成されたのか?ヨーロッパ列強が当時優れた武器を保有していたが、その武器の差によって、アジアの他の国家は、イギリスに勝つことは出来なかったのか?植民地化された中世国家における中世的国王はどの様に、それを受け入れ、そこに安住し、自国民を裏切った。か知っているだろうか?ここに、インドを例に取り考察したい。

 また、同時に、植民地からいかにして植民地支配国はその富を吸い上げ、その地域の社会を破壊し、困窮させたかを理解できるように、交易・社会制度改革についても書きたい。植民地政庁の赤字と植民地からの富の吸い上げとに何ら因果関係はなく、継続的に膨大な富が吸い上げられていたことが分かるはずである。


イギリス東インド会社におけるインド征服の過程


 約200人のロンドンの商店主や職人などの共同出資で雑居ビルの中に作られた会社が、初めてアジアに船を出航させたのは1601年の1月のことであった。会社の名前は東インド会社と名付けられた。会社の航海は成功し、投資者に多額の配当をもたらした。2回目は100パーセントの配当。3回目は234パーセントの配当が出た。

 1602年にオランダがオランダ東インド会社を18倍の資本金で設立し、イギリス東インド会社より有力な会社を作った。イギリス東インド会社はオランダ東インド会社との競争を避け、中国と直接交易を試みようとしたが失敗し、インドに目を戻すことになった。

1608年イギリス船がインドのスラートに到着した。ウィリアム・ホーキンズは国王の親書を持って、皇帝に謁見した。ホーキンズの持参したの献上品は皇帝を退屈にさせたが、ホーキンズ自身の性格(大酒のみでひょうきん。皇帝もアル中だった。)は皇帝をいたく喜ばせた。皇帝は彼に宮廷内での役職に就け、莫大なサラリーをつけた。ホーキンズは会社に書く送っている。「私は私腹を肥やしながら、会社に貢献している。」と。
 彼は交易の契約を皇帝と結ぼうとしたが、皇帝は何故そのようなものをほしがるのか理解できなかった。何故なら、約束というものを理解していなかった。自分の意志で自由にできるもので、「今日認めても、明日気が変わったら自由に、反故にできる。」それが皇帝の契約の概念だった。

 1612年、ついにイギリスは一枚の紙切れを皇帝より賜った。イギリスとの交易を認め、保護する契約の紙切れを。しかし、皇帝はイギリス人を気に入っていたが、その取り巻きは嫌っていた。特に、スラートを支配している皇帝の息子がイギリス人嫌いであることは不利に働いた。また、皇帝自身、契約に対する責任感も義務感もなかった。
 そのため様々なトラブルが起こって、会社は国王に外交官を派遣することを願い出た。そして、サー・トマス・ローが派遣された。皇帝はローの献上品に喜び、彼を大切に扱った。
 彼の活躍により、しばらくは交易が円滑に進んだが、彼が交易の独占を願い出た事によって、皇帝をいらだたせ、最後には怒って、ローが予定していた献上品を没収してしまった。
(皇帝はそれが皇帝の当然の権利だと考えていた)

 ローはそれでもしばらくは努力したがついにあきらめて、帰国した。皇帝は(さすがに気が咎めたのか)スラートとアグラに軍を駐留させる許可と、司令部の設置と、自分たちの間で発生したトラブルは自分たちで解決する(司法権)許可を与えた。これは最も重要な権益であった。

 1667年にチャールズ二世がポルトガル王女と結婚し、持参金としてボンベイを手に入れ、会社は年10ポンドで借り受けた。最初のインド国内のイギリス領土であった。

 会社は更に交易を広げようと、ベンガル進出を考え、(ベンガルはインド国内で最も肥沃で、多くの商品・物資が各地から集まってきていた)長い努力の末にハグリーに商館を設置する許可を得て、設置した。しかし、現地の太守と頻繁にトラブルが発生し、ついに会社は遠征軍を派遣する決定を下した。イギリスが初めてインドで武力を行使した。(アングロ − ムガール戦争1686年−8年)
 イギリスはイギリス軍の他にポルトガル傭兵、ラージ・プート傭兵を率い。皇帝は1万2千(通常2/3近くが奴隷や皇帝貴族の料理人などでしめられる)で戦った。戦いは一方的で、戦う度にイギリス軍は打ち破られ、ハグリーを失うどころか、逃げ回って、カリカタ(カルカッタ)へ逃げ込み、そこを要塞化して、かろうじて壊滅を防いだ。イギリスはベンガルの商館だけではなく、スラートまで占領され、インドから何時、叩き出されても不思議でない状態になった。しかし、突然、皇帝からの使者が訪れ、講和を持ちかけたのだ。
 しかも、スラートの権限、ハグリーの商館、その上カルカッタに作った要塞も認める内容だった。その理由は色々言われているが、真実のところは、ただ単に皇帝が戦争に飽きたためだろう。既に十分にイギリスに勝ったので、満足し、宮殿の生活が恋しくなって、止める気になっただけだろう。皇帝にとって、スラートもハグリーもカルカッタもボンベイも宮廷での生活に替えれるものではなかった。
 1685年にインドのイギリス陸海軍最高司令官(後の総督)になったサー・ジョン・チャイルドは1689年に次のように言っている。「我々はインドの中の一国とならなければならない。以下省略」初めて、イギリスがインドでの交易以外のことを目指し始めた兆候である。

 1707年にイギリスをさんざんに打ち負かした皇帝アウランゼープが死に、情勢が大きく変化する。簡単に情勢を説明すると、1664年にフランスもインドで交易を始めていた。アウランゼープはヒンドゥー教とを弾圧していたので、マラータのヒンドゥー教とがムガールの統治から脱却し、北西部のシーク教徒たちもムガール王朝は統治できなくなった。
 この状況下でデュプレーがフランス東インド会社の社員としてインドに到着して、瞬く間に頭角を現し、オーストリア継承戦争(1740−8年)で、イギリスを叩きのめすことになる。
 フランスではデュプレーにインドでイギリスと戦うなと指令していたが、戦うつもりで戦争を計画していた。しかも完璧な計画であった。
 まず、デュプレーはインドのイギリス軍に喜望峰より東ではお互い敵意を持たないように提案した。イギリス軍はデュプレーの希望通りにこれを拒否してくれた。これにより、デュプレーは会社の命令に従わずに、合法的に戦端を開く理由を手に入れた。また、イギリスはインドのフランス商船を拿捕したので、なお好都合になった。
 デュプレーはカーナティックの太守を説き伏せて、自軍に加えて、軍を強化して、マドラス(東海岸で最も大きい町で、イギリスの交易上重要拠点だった)をわずか数時間で攻略した。続いてセント・デービット要塞を攻撃し、要塞そのものを破壊しかねないほどの苛烈な攻撃を浴びせかけた。イギリス軍は要塞へ救援軍を差し向けたがフランス軍が立てこもるポンディシェリーでつまずき、数ヶ月包囲したが、結局デュプレーに負けて、包囲を解く羽目になった。その二月後オーストリア継承戦争は終結した。
 結局、本国の決定で、デュプレーの占領したイギリスの権益はイギリスに返されることになったが、重要な意味を持った戦争であった。

  1. インドで国家の形態を持たない二つの外国勢力が戦争をしたこと。
  2. これを止められないほど、インドが混乱していたこと。
  3. インドの太守の力がまだまだ強く、地元の太守を味方に引き入れた側が、圧倒的に有利になること。
  4. イギリスもフランスも地元の太守の意向を無視して自由に行動したのに、地元の太守はこれを掣肘できなかったこと。(太守の戦力が貧弱であったのではなく、政治力や熱意が足りなかった。結局、自分の地位と権力(民衆を支配すること)が侵害されない限り無関心であった)

 また、この状況を利用して、イギリス軍は南カーナティックの首長(反乱で地位を失っていた)の地位を援助して回復させて、代償として領土をもらった。
 特にこのころのカーナティックは混乱し、各地で後継者争いがあり、太守すら後継者争いをした。この争いにフランスもイギリスも介入し、フランスが優位にいつも立っていた。
 そのため、南インドではほとんどの太守・首長がフランスの保護下で地位を保っていた。(もし保護から外れれば、たちまち住民や部下によって地位を追われる羽目になっていただろう)

 そのバランスがカーナティックの太守の死によって変わった。フランスは有力な後継者を擁立し、イギリスは別の後継者を擁立した。はじめのうちはイギリスもフランスも直接戦闘することを避けようとしていた。ただし敵意ははっきりしていた。
 ---「われられはお互いに別々の立場にいるが、ヨーロッパ人後が流されることは、私の望むところではないし、また、その意図もない。しかし、貴軍の位置を知らないので、もし弾丸がそれてイギリス兵を傷つけてもそれは私の責任ではない---
 ---我々の銃にはイギリスの旗がある。探す気があるなら分かるはずだ。・・・中略・・・弾丸がこちらに来たらそのときは覚悟しなさい---
 セント・デービット要塞はまた包囲された。トリチノポリも包囲された。誰が見てもイギリスは風前の灯火であった。ロバート・クライブがいなかったら、インドを支配したのはフランスだったかもしれない。文官出身のクライブがアルコット(カーナティックの首都)攻略を上奏しなかったら。

 クライブは500の兵を連れてマドラスを発ち、5日かけてアルコットに到着した。アルコットには1100の守備兵がいたが、完全に不意を打たれ、簡単に敗走した。
 問題は彼がいつまでアルコットを支配できるかである。クライブはアルコット奪回に近くに宿営していた部隊に夜襲をかけた。事前に地形を調べようとしなかったが、幸運にも夜襲が成功し、優勢な敵を撃退した。太守の息子が4000の兵でアルコットを包囲した。クライブはよく守ったが、水はなくなり、兵のほとんどけがと病気で動けなくなった。
 此処で、クライブはまたもや幸運によって助けられた。ヒンドゥーのアラータが現れ、太守は兵を下げざるを得なくなった。(たまたま通りがっかった。アラータとイギリスは同盟していなかった。)太守は、アラータによってとらえられ、処刑された。
 この幸運が状況を一変させた。マイソールの太守がイギリスに、フランス軍のセポイ兵も次々とイギリスに寝返った。ついにトリチノポリを解放した。
 デュプレーは状況改善のために、マイソールに工作したり、セントデービット要塞への攻撃を強めたりしたが、1745年デュプレーは解任された。本国のフランスとイギリスはインドで彼らが戦っていたことを知らなかった。デュプレーの解任によって、戦争は終わった。

 しかし、平和は長く続かなかった。次の火種はベンガルだった。ベンガルの太守ヴァルディー・カーン(彼はムガール皇帝ともイギリスともうまくやっていた)が死に、後継者のシラージ・ウダウラがイギリスを警戒した。彼の元に知らせが来た。イギリスがウィリアム城の防御工事を行ったのである。ウダウラは驚き、抗議した。正当な抗議であった。イギリスは抗議を無視した。ウダウラは戦争に踏み切った。(アングロ − ベンガル戦争 1756−7年)
 ウダウラの軍はまず、カルカッタを包囲した。カルカッタは既にベンガルでの最大の基地になっていた。すぐそばに、ハグリー川が流れており、その川にはイギリスの船が何隻も停泊しており、カルカッタの守備兵は少なくても十分にマドラスか援軍が到着するまで守りきれると考えられていた。
 しかし、イギリス軍が予想したより遙かにインド軍は強かった。川と城からの砲撃に数百人の死者を出しながらも、いっこうに戦意は衰えず、カルカッタの各所に火をつけ、脅かした。守備隊は危機感を募らせ、カルカッタにいたヨーロッパ人を避難させるべく、ハグリー川に停泊している船に乗船させた。その指揮を執った守備隊士官たち二人が彼女らを乗船させると、カルカッタ要塞に戻ることを拒否するほどの混乱ぶりだった。ついに、守備隊司令官のドレークまで逃げ出した。ウダウラは貴金属で着飾った姿で、悠々とカルカッタ要塞に入場した。ベンガルにいるオランダ人やフランス人は先を争うようにウダウラに献金し、ウダウラは皇帝に「無礼なヨーロッパ人を懲らしめた」と、勝利を誇った。

 しかし、ウダウラはこの勝利を拡大し、政治的に利用することも、イギリスと最終的な講和も考えていなかった。ただ、勝っただけで満足し、何の行動もしなかった。アルコットで一躍有名になったクライブが遠征軍を連れてやってくることをただ黙ってみていただけだった。クライブの2000に対してウダウラの軍は3万(ただし2/3は非戦闘員)だった。
 小競り合いで勝敗を繰り返したが、ウダウラは中世人らしい移り気で、戦略的な思考のない考えで、さっさと講和してしまった。カルカッタでの勝利で満足し、実質的な利益には関心がなかったのだ。苦労して得たカルカッタをさっさと返したのだ。クライブはウダウラとの講和が成立するとすかさず、ベンガルのフランス基地を攻撃し、占領した。重大な講和条約違反であった。ウダウラは怒ったが、ウダウラの地位を奪い取りたいと考えていたウダウラの叔父が、クライブと内通していたのである。利益のためには自分の国の敵であろうと、その後にイギリスの属国に地位に落ちることを理解していても、平気で内通する。最も中世人らしい人物であった。

このころ、クライブの指揮する兵力は3000を越えていた。ウダウラの軍は5万(2/3は非戦闘員)ただし、相当量の戦闘員が内通していた叔父の指揮下にあった。それでもウダウラは優勢に戦闘を展開した。イギリス軍の陣地に優勢な砲弾を落とし、イギリス軍が塹壕から出られないようにした。しかし、スコールが来て、インド軍の火薬を濡らしてしまった。大砲に代わり、騎兵部隊を突撃させた。しかし、象部隊の象が混乱し、味方の騎兵を踏みつぶしてしまった。ウダウラは騎兵部隊の失敗を見ると、まだ戦える戦力が残っているのに、駱駝に乗って、戦場を後にした。インド軍は太守の撤退を聞いて、背走した。クライブはまたもや幸運によって勝利を手につかんだ。
 インド南部ではフランスから派遣された軍人によって、戦闘が継続していたが、彼の政治的センスのなさにイギリス軍に決定的に打ちのめされた。
 カーナティックが破れ、ベンガルも破れた。しかし、それでもインドはまだ巨大だった。強力なマラータやマイソールも残っていた。彼らは単独でイギリス軍を完全に覆滅できるほどの戦力を握っていた。それを戦場で示すことになる。

 クライブはベンガルでのオランダ人の勢力も排除し、ミル・ジャファー(ウダウラの叔父で、ベンガルの太守だった)を廃位し、ミル・カシムを立てた。(ベンガルの富を奪い尽くそうという最も恥じずべき行為だった)しかし、ミル・カシムはイギリスの傀儡とはならなかった。そして、戦い破れて、皇帝を頼った。(アングロ − ムガール戦争1764年)戦闘はあっけなく終了した。皇帝を捕虜にできなかったことを司令官はなじった。理由は彼らが身につけている数十万ポンドの宝石が手に入れられなかったからだという恥じるべき理由であった。イギリス人は盗賊に成り下がっていた。
 パトナのイギリス軍連隊本部のイギリス兵が170人暴動で虐殺された。インドにおけるイギリスの秩序破壊がインド人の忍耐を越え始めたのだ。会社は既に帰国していたクライブを再召還し、秩序回復に当たらせた。クライブは既に占領していた土地の一部を太守達に返還し、太守達や皇帝の権威を回復することによって、秩序の回復に成功した。また、徴税組織の整備、腐敗した幹部の更迭(元々、クライブが戦争を繰り返し、講和の際に太守から金品の贈り物で私腹を肥やしていたことを更に悪辣に行った幹部達であった)した。

 実はこの頃、東インド会社は破産に貧していた。150万ポンドの融資を政府より受けてかろうじて経営を立てなをす段階に入っていた。ヘースティングが派遣されて、経営は立て直されたが、一時的のものだった。

 第一次アングロ − マラータ戦争(1775−82年)でボンベイのイギリス軍は簡単に破れた。ヘースティングはベンガルの守備部隊を減らしてでもボンベイ救出軍を編成し、派遣せざるを得ない決断をする。これはまったく危険な決断だった。ボンベイに籠城していた軍は援軍を待ちきれず、攻撃に出て、降伏する羽目になった。しかし、派遣軍はかろうじて間に合い、戦況を膠着させる効果を持った。
 また、ベンガルで急編成したセポイ兵を主体とした軍でマラータを後ろから攻撃でき、マラータの弱点である連合性を攻撃できた。マラータは連合体としての意思統一に欠け、戦費の負担に悲鳴を上げたが、他のどの領主も彼らに味方しなかった。イギリスの提案の休戦条約に調印せざるを得なくなった。イギリスはこの戦争を通じて、マラータに最終的に優位な立場にはなり得なかった。マラータが戦費で悲鳴を上げたように、イギリスの戦費もただごとでなかった。

 ――――何という勝利だ!財政は枯渇し、借金は募る一方だ。・・・ボンベイは守ってやらなくてはいけない・・・マドラスを確保し、カーナティックを勝ち誇る敵の手から取り戻す責任もある・・・おまけにインドの四方八方ではヒンドゥー教徒地帯のあらゆる勢力が結びついて、今にも戦争が起こりそうである。―――――(ヘースティング)

 結局対等な休戦条約「イギリスとマラータはともにインドで生き、生かせることを認める」しかむすべなかった。そして、イギリスがマラータに苦しめられている間に、マラータより恐ろしい敵がマイソールで生まれたのだった。

 実はマイソールは一度イギリスと戦っていた。(第一次アングロ − マイソール戦争1767−9年)この際、イギリスはいくつかの小部隊を撃破され、マイソールとマラータとの間が悪化したので、マラータに敵対する際の援助を条件に、平和条約を結んでいた。しかし、この条約を十分にイギリスが履行しなかったことを根に持っていた。それ故にマイソールは再度イギリスに挑戦した。(第二次アングロ − マイソール戦争1780−4年)
 マイソールの太守ハイダー・アリはイギリスとの戦争を決断すると、これまでの中世太守とうってかわって、果断で素早い行動を示した。彼は十分に計画され、そして、インドの領主としては初めて近代的な侵攻作戦を実施した。カーナティックのイギリス軍は行動する前に、カーナティックのほぼ全域を切り離され、相互の連絡が取れないようにされ、陸の孤島のように分断された。ほぼ全域が支配されたのであらゆる補給が現地で調達できなくなった。ハイダー・アリは防備の薄い都市は占領し、それ以外の地域は徹底的に略奪し、焦土作戦を採ったのであった。イギリス軍の8000の軍隊はマイソールの侵攻の早さに対応できずに、二つに分断され、各個撃破された。
 わずか3週間の出来事であった。マドラスと幾つかの要塞がかろうじて、マイソールの包囲に抵抗しているだけになった。ヘースティングは勇将クートに援軍を与え、マドラスに派遣した。彼を持ってしても、マドラスと海岸線の幾つかの都市を往復して、かろうじて連絡線を繋ぐのがやっとだった。その間に数度の会戦があって、クートは3度勝利したが、ハイダー・アリの熱意を折ることは叶わなかった。
 (驚くべき事である。従来のインドの太守は全て、中世的太守で、一度の失敗で、いや、少し戦況が悪化した程度で、すぐに諦め、安易に妥協して、結果的にイギリスに利益させたが、彼は戦略を非中世的な熱意で継続させ、完全に屈服させるまで途中で妥協しようとはしなかった)
 戦略的劣性を数度の戦術的勝利で補うことはできない。結局、クートはマドラスに引きこもる羽目になった。しかし、幸運がイギリスにまたもや味方した。異例の名太守ハイダー・アリが病気でぽっくり死んだのである。息子のティープも優秀な太守では有ったが、さすがに死んだ父に成り代わって、戦争を継続できなかった。ティープは軍をマイソールに返して、数ヶ月後に平和条約を締結した。将来また戦うときまでの。この間に、イギリスはイギリス人兵士1000名がマイソールの捕虜になっていた。これは数人に一人の割合だった。

東インド会社の財政はヘースティングの私財を投入するほど逼迫していた。その逼迫をベナレスのラジャを攻撃し、罰則金として100万ポンド徴収し、補った。もはや恥も外聞もなかった。東インド会社が倒産すれば全てのアジアでの植民地政策が破綻するのだったのだから。

 ティープは力を蓄えると、亡き父に代わって、イギリスに挑戦した。(第三次アングロ − マイソール戦争1790−2年)しかし、ハイデラバードやマラータは逆にイギリスに味方し、軍を提供する始末だった。(理由はティープが太守の家系でなかったからである。ハイダー・アリはその辺をうまく調節していたが、ティープにはそれができなかった)
 かくして、四方に敵を迎えるが、初戦では良くやった。南から攻めてくるイギリス軍を地形を利用し、討ち、カーナティックへ侵攻し、南のイギリス軍を孤立させた。イギリス軍はまたもやマドラスに立て籠もった。
 ベンガルからの援軍が到着すると戦況が一変した。ハイデラバードのニザーム騎兵1万と合流したイギリス軍は、一度はセリンガパダム要塞に迫ったが、引き返し、軍を強化して、戻ってきた。イギリス軍はマラータの援軍も併せて4万になっていた。更にボンベイからの増援が到着すると、ティープは講和を求めだした。ティープは領土の半分以上をイギリス・ニザーム・マラータに割譲し、莫大な賠償金を払って戦争は終結した。

 1798年にイギリスはティープがフランスと共謀し、戦争準備を始めているとし、宣戦した。(第四次アングロ − マイソール戦争1798年9年)総勢5万(非戦闘員を入れると25万を越えた)を越える軍隊でマイソールに進入し、ティープは戦闘のなかで死に、戦争は終結した。

 もはや、インドでイギリスに脅威になる勢力はマラータだけになってしまった。それも対等とは言い難くなってしまっていた。そのマラータを潰すチャンスはすぐに訪れた。
 驚くことに、この状況下で、しかも、マイソールを潰した後のイギリスは次々と各地の太守や首長を傀儡化している中で、マラータ連合の盟主の地位を巡って、内紛を始めたのである。イギリスはこのチャンスを見逃さなかった。(第二次アングロ − マラータ戦争1803−5年)
 現代でも熱狂的なヒンドゥー教徒は死を恐れない強兵だが、マラータの兵も強兵だった。傷ついた兵は死者の中に混じり、死んだ振りをして、イギリス軍が通過した後に立ち上がり後ろから攻撃した。イギリス歩兵隊の断固とした前進の前に、マラータ軍は撤退せざるをえなかったが、イギリス軍の被害もひどかった。イギリス軍は1000の戦死者と1800の負傷者を出した。マラータは1200の死者を出した。
 アーガウムでまた打ち破った。ちょうどその頃、デリーに向かっていた部隊もマラータ軍を打ち破り、デリーを解放した。デリーにはムガール皇帝がいた。皇帝は丁重に遇されたが実質は捕虜だった。更にアグラ、ラスワリを占領した。3ヶ月でこれらを達成した。
 しかし、此処からマラータの有力首長の一人ホルカーによる反撃が始まった。イギリス軍の一部隊はホルカーの騎兵に捕まり、250マイルも追撃された。アグラが脅かされ、デリーが包囲された。しかし、これが限界だった。戦争が終結してみると、イギリスはインドの大半を支配していた。
 1800年4月30日インド支配のための借金は1443万ポンドに上っていた。

 此処から簡単に書くが、ネパールへ出兵したりした。マラータ兵の敗残兵が各地で強盗を働いていたので、これを撃った。この行動はマラータのイギリスに服属していない、もしくは形式的には服属していたが、自治能力があった勢力はイギリスに敵対しざるを得なくなった。イギリス軍は12万の大軍でマラータの再征服をした。ホルカーも潰された。1824年にはビルマと戦争し、かろうじて勝った。

 インドではイギリス憎悪が高まっていた。イギリス人は自分を誤解していた。総督は自分が皇帝にでもなったつもりでいた。事実、総督の指揮下に25万の軍隊がおり、本国の常備軍より多かった。イギリス人は自分達がどれほど憎まれているか理解しなかった。安易に北部を視察し、北部の太守は自分の宝石で飾られていたターバンを引き裂き溝に流すほどの屈辱を味合わせた。

1839年アフガンの内紛に介入し、侵攻し、カブールを占領するが、反撃に合い、数名しか帰ってこなかった。2万近くの人をアフガンの雪の下に残してきたのだった。アフガンの失敗はシンドで火を噴いた。シンドは併合された。
 続いて、太守が死んで軍が実権を握ったパンジャブで事が起こった。イギリスの対応のまずさが際だち(インド人を馬鹿にしていた)問題を深刻化させ、戦争に発展させた。1845年に侵攻してきたシーク軍は各地でイギリス軍を打ち破り、フェロゼプールでは7000のイギリス軍を包囲した。1846年に15000のイギリス軍は2万のシーク軍を激戦の末に打ち破り、ついに逆に侵攻できるようになった。イギリスはカシミールをヒンドゥーの王に売り渡した。そのため現在でもこの地では流血が絶えない。
 すぐにパンジャブで反乱が起こった。(1848年)イギリス軍はすぐには対応できなかったので、(それだけ反乱の規模が大きく、不用意に軍を小出しにすればかえって傷を広げることになるおそれが高かった。)パンジャブやその他の地域に広がった。チリアンワラでイギリス軍とシーク軍が会戦し、敵陣を占領したが、実質的には敗北で、引き上げざるを得なかった。その後、イギリス軍は反乱勢力の二倍の軍をそろえ、ようやく鎮圧した。
 更にアウドを強制的に併合し、インド人の恨みを買った。

 しばらくして不思議な習慣がインドで広まった。チャパティー(食品)が人々の手から手へ譲られ、広い範囲に広がった。ちょうどクライブのベンガル征服から100年目だった。イギリスにとって、インドでの最後の試練が近づいていた。セポイの反乱である。セポイは傭兵のことである。特にアウド出身のセポイが強く反乱することになる。

 インド内のイギリス軍の銃をエンフィールド銃に交換した。この銃の弾薬にはイスラムもヒンドゥーも、ともに嫌う動物の獣脂がグリースとして使用されていた。元々、軍内部での人種差別問題が表面化しつつあり、イギリスの行ったインドでの改革(近代化を目的としたもの)がインドの中世社会秩序(主に地域共同体制度)を解体させる方向に作用し、それによる不安と恐怖が蓄積していた。それに加えて、インド北部でのイギリスの強引な政策の積み重ねが彼らに爆発するきっかけが与えられるのを待たせていた。
 まず、第2インド歩兵連隊と第19歩兵連隊が爆発した。兵舎を焼き、司令部をおそった。両部隊は速やかに解散された。しかし、インド総督はこれ以上の処置を執らずに、セポイの不満を放置した。そして、1857年5月12日カルカッタに私信電報が届いた。
 ――――騎兵が兵舎や士官の宿舎にも火をつけ回っています。ヨーロッパ人の士官や兵士をみつけしだい殺して回っています。叔母さんが明日の夕方こられるそうですが、どうか中止してください。列車は皆駅でストップしています。――――――デリーのメラート基地の役人の娘

 5月9日のメラートではイギリス軍指揮官が命令に反抗的なインド人を懲罰するため、閲兵式を行った。銃の弾丸(新式の銃の弾丸:獣脂のグリースを塗られたものではなく、旧式の弾丸)を配布したが、インド兵は受けつりを拒否した。(彼らに十分な説明が行われていなかった。仮に行われていたら受け取ったとは言えないが)司令官は拒否した兵士を裸に剥き、鞭討ちし、10年の禁固にした。
 翌日、指揮官の家族が夕べの祈りを捧げているときに、3個連隊の反乱が始まった。手当たり次第にイギリス人を殺し、囚人を解放し、デリーへ進撃した。彼らの後ろ(メラート)にはまだ相当数のイギリス兵(1500相当)が彼ら以上の装備で残っていたが、何もしなかった。否、デリーへ伝令を出した。デリーにはムガール皇帝がいた。
 反乱兵はデリーに入城すると、イギリス人を殺し、ムガール皇帝に謁見し、玉座に戻られることを要求した。皇帝は自分にはおまえ達を養う金がないと言ったが、セポイは即座に、金の心配は必要ない。と、答えた。その夜、21発に祝砲とともに、「インドの皇帝、かの有名なご先祖バーブル、アクバル、ヤハンギールの直系であらせられる皇帝。イギリス女王より遙かに偉大な御先祖の血を濃く引く皇帝が今、玉座に登られました。」と、宣言された。
 この時、セポイが担いだ皇帝が既に彼らを裏切っていたことを知らなかった。皇帝はアグラの北西地区総督代理に救助を乞うていたのだった。各地のセポイに反乱を呼びかけもせず、太守に蜂起を指示もせずにである。
 もはや、インドの未来もインド人の自由や自治も関心がなかったのである。自分の権力すら。いや、ひょっとすれば、自分の指示で起こった反乱でないので自分が事態の主人でないから積極的に、彼らの意図をくじこうとしていたのかもしれない。このような指導者は中世人には多い。

皇帝によって最初から裏切られていた反乱は、次々に各地に飛び火した。バレイリー、シタプール、ジャラダール、ファイザバード、スルタンプール、ナウゴング、シャジェアンプール、アラハバード、ジャンシーなどにわずか2週間で反乱は拡大した。反乱軍には多くのアウド出身者がいて、彼らはアウドの廃位させられた太守の元に集結した。瞬く間に、アウドはアハラバードとアグラを除いて、太守の元の解放された。
 しかし、この辺が限界だった。統一された意志、有能な指導者、勝利を政治的に利用する戦略性と政治力、思想とビジョン全てに欠けていた。反乱は各地で優勢でその優勢を長時間維持した。しかし、それを拡大できなかった。否、拡大する意志を持った命令が出されなかった。各地に散らばる反乱勢力を体勢を立て直したイギリス軍が、各個撃破にかかったのに、何も新しい戦略的行動も、それを防ぐ行動もなされなかった。政治的な工作(他のセポイに対する働きかけなど)もなされなかった。イギリス軍は時に負けながらも、時間をかけて一つずつ反乱勢力を潰すことができた。
 セポイの反乱はただの単純な傭兵の反乱ではなかった。民衆も協力していたのだった。しかもカースト制度を横断して。チャパティーが人々の間で贈与されていたのは暗に、民族主義的反乱の意向の確認であった。チャパティーを受け取った人々はセポイに協力していたのである。このため、セポイの反乱はただのインド人兵士の反乱ではなく、最初の民族主義的行動として評価されている。また、歴史家によっては最初の独立闘争と解釈する人もいる。

1858年9月1日インドはイギリス国王の直接統治下に置かれた。

まとめ

 インドは明らかにイギリスを退ける力とそのチャンスはあったのである。にもかかわらず植民地化されていくのはインドが中世社会の形態から脱却できていなかったためである。
 中世社会が色の濃く残るインドでは、人民は国家の盛衰には関心が無く、国王にとって人民はただの生産をあげる土地に付属した備品であった。また、人民にとって、国家とは国主や太守の都合で決められるが、自分達に関係のないものである。関係するとしたら税金の納め先が変わるだけである。
 そして、国主や太守にとっての関心事は自分の地位、権力、人民に対する支配、が犯されることで、その事態が発生するまで、関心を持たず放置するだけである。
 日本に置いても江戸幕府はフランス製の武器で武装したが、イギリスなど西欧の圧力に対して、その武力を行使したことはなく、国内の薩長に対してのみ行使している。
 それは、西欧は幕府に難題を突きつけても、幕府の転覆は考えていなかったが、薩長はそれを目指したからであった。
 イギリスのインド統治も、直接統治ではなく、現地の国主・太守を残し、間接的に統治するものだった。そして、国主・太守はイギリスの行った社会改革と近代化(ライーヤトワーリー制度等により)により、人民の統治が中世型の統治ではうまく機能しなくなるとともに、イギリスへの依存を高めていくことになった。

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