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幕末から学ぶべきこと


幕末で学ぶべき事とは一体何であろうか?

命も怖れず国のために奔走した志士達の志だろうか、それとも、己の信念を曲げずひたすら幕府に忠を貫いた人々の武士道だろうか?いや、そうではない。
もちろん、前者にも見るべき点がないこともない。ただ、私が次にあげることの前では甚だ無力である。幕末で学ぶべき事。それは則ち時勢というものである。

あなた方は長井雅楽という人物を御存知だろうか?
長井雅楽は長州藩の政務方として、胆力・識見ともに優れた人物で、幕末で最も素晴らしい論文といってもよい『航海遠略策』を書いた人物でもある。この『航海遠略策』は文久元年、まだ日本がペリーショックから抜けきれず、後の尊王攘夷運動も本格化していない時期に書かれたもので、その内容を説明すると、


「鎖国・開国と両論が紛糾し、時間がいたずらに流れている間にも、外交の空白が続いており、このままでは列強につけこまれ思うつぼである。
朝廷は幕府に条約を破棄せよと言っているが、そんなことをすれば列強はたちまち兵を差し向け戦争となるであろう。戦争になれば、三百年間太平に浸りきった武士にどれだけ戦力があるか非常に心許ない。破棄すれば、攘夷を唱える血気の徒輩は喜ぶだろうが、戦争というものは十分の勝算をもってやるというのが、古今の名将の道である。軽々しく戦いをおこして無策の戦争をし、そのため国を亡ぼした例は古今数え切れない。
かれら列強は航海に熟達している。利器をもって数万里の海路を駆けまわっている。ここ十年航海を専門とし、船数に富み、日本近海の航路に通じているから、いざ戦争になれば、日本の各地に出没し、江戸その他大藩の城下を侵略するであろう。日本全土が海岸でできあがっているから、防衛上非常に都合が悪い。彼らは自由にどこの海岸でも攻略できる。列強が常に言うところの”日本は三千の兵で陥れることが出来る”というのはこのことであろう。
だいたい鎖国というものは古来の方針ではなく、家光公のときに幕府が島原の乱に懲りて国を閉ざしたのが始まりにすぎない。日本はこの機会に開国し、積極的勇気をもって攻勢に出、艦船を増やし、貿易をし、それによって日本の威を昂揚し、列強をして貢ぎ物を日本に持ってこさせるところまでの大方針を日本としては今定めるべきなのである。」


なんと見事な論文か。これをこの当時に書くことの出来た長井雅楽の識見・能力の高さがここからもうかがえるであろう。しかし、攘夷攘夷と叫ぶ無知・無謀の輩にはこの正論は通じなかった。いや、理解できなかったというべきか。そして、この大馬鹿連中は、長井を奸物として殺してしまうのである。
私が何を言いたいかはもう理解してもらえただろう。誰よりも時代を見据え、どこへ行くべきか、その方針を打ち出した偉大なる人物が、時代も何も見えない狂乱者どもに天誅として殺されているのである。
あなた方はこの狂乱者の中に、西郷隆盛、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、その他維新の英傑たちが続々と名を連ねているのを御存知か。そう、彼らもこの時点では蒙昧なる書生に過ぎなかったのである。
そして時が流れ、いつの間にか奸物として天誅を下した長井をはじめとする先覚者の意見に前へならえして、維新を迎えているのである。おそらく維新後、非常にきまずい思いであったろう。その彼らがしたことは、このような事実を表には出さないことであった。彼らはこのことを闇に葬ろうとしたのである。彼らの行為は無駄ではなかった。こうして今も長井雅楽のほか、幕末に殺された先覚者の名前はほとんど人の耳には入っていないのだから。

私は何もここで西郷らを責める気は全くない。むしろ、彼のような人物ですら時勢が見抜けなかったということは、いかに時代の流れを理解することが難しいか、また時代を見抜くためにはいかに知識が必要かを物語っているように思える。
歴史で学ぶべきは、その時代を必死に生きつつも、その時代の特徴その他を冷静に分析し、今世界がどういう方向に向かっているのか、そして自分はなにをすべきか、という点であり、それ以外にはない。
しかし、沖田、斉藤ら、覚えなくてもよい、むしろ覚える方が馬鹿な名前を必死で覚える酔狂な人間が腐るほどいても、このような見習うべき先覚者の名前を覚える人間が殆どいないというのは滑稽と言うべきか。

私は幕末を扱うページなどにもよく行くが、そこで尊敬するべき人物の欄に新撰組の面々の名があったり、「沖田は私の理想です」とか言っているのを見る度に怒りにも似た悲しみがこみ上げてくるのをいかんともできない。
時代の流れも見抜けず、ただ何も考えずに人を殺してきただけの人間のどこを尊敬し、理想とするのか?私は彼らに聞きたい。
幕府に忠を尽くしただとか、己の信念に従ったなどと彼らは主張するが、私に言わせれば何をいいやがるといった感じである。忠を尽くすことがそれほど素晴らしいことなのか。己の信念を貫けば何をしても許されるのか。少なくとも彼らを見習うなどということに何も意味はない。
生き様を見習いたい、かっこよくありたいのであれば、マンガにでもドラマにでもそういうヤツはいるだろう。別に脚色に満ち満ちた新撰組でなくともこれらの空想の人間を崇め奉ったらよかろう。ただ、これは私個人の考えだが、脚色された人間は人間離れしているからかっこいいのであって、なろうとしてもなれるものではないと考えるのだが。

よく英雄に見習おうなどというが、それは人に異常人たれと言っているのと同じで、これほどナンセンスなことはない。世の中の99%以上はごく平凡な人間である。貴重だからこそ彼らは歴史に名を残しているのである。
我々は普通の人間である。では、普通の人間はどうすべきなのか?それは、織田信長、西郷隆盛からは学べない。司馬氏をはじめとして、世に読まれる歴史小説のほとんどは英雄を扱っている。それは面白くもあり痛快でもあるが、自分には何の参考にもならない。英雄の片隅でひっそりと名が出てくる人間こそが我々であるのだ。

我々は歴史の大河を構成する一粒の水滴でしかない。その水滴が、例え微々たるものでも、己の道を正しく見据え、それにふさわしい行動をとれば、大河は1ミクロンでも前に進むだろう。その1ミクロンの前進のために、我々は歴史を学ぶのである。歴史を単なる享楽の種にしてはならない。享楽の種が欲しければ他のもので代用すればよい。

もし、これを読んでいる貴方が新撰組のファンで、彼らの生き様に憧れているのであれば、私は貴方に言おう。キミが今歴史と思っているものは歴史ではないと。キミはマンガ・小説などのフィクションの物語と同じ視点で歴史を捉えているのであって、それは歴史の副産物ではあるが主産物ではない。もちろん副産物として、そのようなミクロ的な歴史に意味がないとは言わない。ただ、歴史には主産物であるマクロ的歴史があるのだということは覚えておいて欲しい。マクロ無きミクロは単なる物語の域を出ないのである。もし、マクロの存在に気づいていなかったのなら今からでも遅くはないと思う、歴史の本当の価値に気づいて欲しい。それが徹歴の目的であるのだから。








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