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日本の近代化に関して


これは私が経済史の論文で書いたものです。ちと論文調。テーマは「なぜ日本は工業化できたか。その工業化の特徴は?」というものだったと思います。
まず工業化の要因として,一つに物流システムの確立というものが考えられるが、日本は豊臣秀吉のころから確立しはじめたと言える。秀吉により,大坂という一大消費都市に諸国の物産が集まり、またそこから諸国へ流れていく物流システムの基礎ができあがったからである。それはすでに江戸時代中期に出羽の酒田でとれた紅花が京に運ばれ紅に加工され,その紅を酒田の婦人の唇に使われるという、工業化にとって必要な物流の環流の一大動脈がつくらていたことからも分かる。

ここで注目したいのが,普通他の国ではこの物流システムは商業的要因から発達することがほとんどであるのに対し、日本はむしろ農業的要因から物流システムが確立されたという点である。
江戸時代の農業は実に多量の肥料を狭い農地に投入したが,その肥料はその地方でとれるものではなく、遠くの地で取れた肥料をはるばる船で運んだものを使っていたのである。たとえば木綿などは本来日本では栽培しにくいものであるが、日本はその木綿を育てるために,わざわざ蝦夷地で取れたにしんを肥料として大量に投入していた。そのにしんという肥料を運ぶために生まれたのが,北前船であり、北前交易であったのである。こういう農業が主体となった物流システム発展というのは確かに日本独自であるかもしれない。

日本の農業の特徴として大規模農業よりも家族経営が多く、そのため家畜が減少し、人という労働力に頼っていた点が指摘されているが、これは江戸幕府の伝統的政策で,地主・水呑百姓を発生させず、本百姓を維持することに重点を置いてきたためである。そのため十分に目の届く狭い土地しか農民には与えられなかったため,その狭い土地でいかに生産高を上げるか,すなわち耕地面積当たりの収穫量をいかに増大させるかが江戸時代の農学の目的であったのである。このため一見家畜資本の減少という半近代的な現象に見えるが厳しい規制の仲で農民は必死で収穫高を上げようし、その結果流通の発展を促したのである。

また近代化には知識の蓄積とその普及が必要であるが、日本はその当時でも高い教育水準を誇っていた点はよく指摘されている。
しかしそれだけでは工業化のための知識は不足である。日本が来るべき工業化へ対応しうる知識を得たのはひとえに長崎でのオランダとの交易であった。
よく鎖国というと全く他国文明との拘留が無かったようにとらえられがちだが、幕府はオランダ商船に寄港のたびに「オランダ風説書」というヨーロッパ事情をまとめた書を提出させ,幕閣で検討していた。そのためアヘン戦争についても勃発後すぐに諸般の藩主や知識人らが対策を協議していたのである。それにともなって ヨーロッパの文明・学問も流入し、幕末には知識人は高等数学どころか蒸気機関の仕組みすら完全に理解していたのである。当時遣米使節団がアメリカの工場を案内されたとき,分かり切ったことばかり説明されヒマでしょうがなかったという随員の日記からも読み取ることができる。
日本は鎖国をしながらも長崎という針の穴からオランダを通じて,ヨーロッパの文明を取り入れ続けていたことが工業化への大きな財産となったと言えるだろう。
そして蓄えられた知識は全国の庄屋を通じて各地方の農民に普及していったのである。
またそういう文化・物産の拘留の発展に参勤交代制が果たした役割は大きかった。交通路の発展を促したほか、江戸で1年間生活した者が地方へ帰ることによって中央の文化が地方に流れていき,文化の均一化が促進されたのである。

また工業化の要因の一つに,イギリスではプロテスタンティズムの流行による勤勉化が指摘されるが、日本でも同じようなことが言える。日本ではその役割を果たしたのが朱子学である。本来、朱子学はイデオロギー色の強いものであるが、日本では朱子学の「勤勉」などの良徳の部分のみを導入し,幕府が積極的に後押しをしていった。そのため日本の国民は勤勉と言われる国民に馴らされていったと言える。貨幣経済という観点から見ると、日本は金貨・銀貨・銅貨といった貨幣に加え、藩札という紙片までもが流通していた。しかもこれらの貨幣はすべて金貨と連動して相場が確定されており、金本位制に近いものがまがりなりにも成立していたのである。

しかし周知の通り江戸時代の間に日本が完全に工業化することはなかった。なぜなら資源のない日本では外国との交易が必要であったが、鎖国という制度によって足枷をされており、工業化は不可能であったからである。しかし逆に考えれば鎖国、即ち他国との流通の欠如という点以外は工業化する条件をひととおりそろえていたとも言える。
そのため維新ののち、開国によって外国との流通は確立され、政策上の問題は解決された。そして不十分だった資本も政府が資本元になることによって上からの工業化が急激に押し進められていったのである。







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