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天下の台所大坂
天下の台所大坂とは中学で習うので知らない人はいないでしょう。大坂は江戸の消費をまかなう形で大きな発展を遂げたのですが、よく考えるとこれって不思議ですよね?わざわざ大坂で作られた物を、はるばる江戸まで運んで消費するというのはちょっと無駄のように思えます。この疑問を解くには、その江戸時代の日本の状況について知らねばなりません。
まず、なぜ江戸で消費する物を関東ではなく、わざわざ大坂から取り寄せるかということですが、関東には江戸の消費をまかなう生産力が無かったからです。なぜ無かったかというと、日本というのは江戸時代まで近畿が中心でした。関東というのは当時は辺境だったわけです。ですから、1590年に家康が秀吉によって関東に移されたとき、江戸は一介の漁村に過ぎなかったのです。江戸は、関東という商品生産の未成熟地に、人工的に作られた都市だったのです。
それからわずか十年ほどで江戸は天下の首都となり、膨大な人口を抱えることとなりましたが、商品生産力が弱い関東周辺ではとてもまかないきれませんでした。これに対し、畿内及び瀬戸内海周辺では徐々に工業化が進み、生産効率も関東とは比較にならないくらい優れていたため、江戸としてはあらゆる商品を上方から仰がなければならなくなったのです。
しかも初期は海路が発達していなかったため、陸路で少量ずつ運ばれていました。ですから上方からくだってくるものは貴重とされていました。
「くだり物」というのは貴重もの、上等なものという語感で、今でいう舶来品といった感じでしょうか。これに対し関東のものは「くだらない」としていやしまれたわけです。「くだらない」の語源はここにあるのです。
そしてより大量の商品を江戸に運ぶため菱垣廻船・樽廻船が登場し、かつてないほどの船が江戸−大坂間を航行することになります。江戸に持っていけばとりあえず高値で売れたので、大坂にしてみれば運べば運ぶほど儲かりました。そして大坂は大いに繁栄しました。
しかし、このような状況は長くは続きませんでした。商品経済が発展するに従い、江戸の後背地である関東の生産力が徐々に上がってきて、わざわざ大坂から輸入する必要が薄れてきました。史料でも江戸後期から、大坂からの輸入が減ってきているのがうかがえます。大坂はその存在意義を失い、徐々に衰退していきました。人口も1750年頃を境に徐々に減少しています。
天下の台所は、そのお得意様であった江戸の都市としての成熟に従い、その役割を終えていったのです。
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