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朱子学が日本の歴史に与えた影響について


元来日本は無宗教のため、宗教色の濃い他の歴史に比べて、損得勘定がはっきりしているというか、ドライな歴史なので、後世の我々としては結構わかりやすいのです。が、そんな日本史の中でもちょっとわかりにくい時代があります。それは南北朝時代と幕末です。そして、この二つの時代をややこしくした要因こそが朱子学なのです。ではまず南北朝時代から考えていきましょう。
ご存じのように南北朝時代とは鎌倉幕府が滅びた後、足利尊氏率いる北朝と後醍醐天皇率いる南朝との争いなわけですが、その前に鎌倉幕府の滅亡について考えます。
はっきり言って、後醍醐天皇の討幕運動はいきなりです。それまではどの天皇も鎌倉幕府に刃向かうことなど考えたこともなかったのに、いきなり後醍醐天皇によって倒幕がなされていきます。しかも取り巻き連中によるものではなく、後醍醐天皇自身が強烈な倒幕思想を持っていました。何故後醍醐天皇はいきなり幕府を倒そうとしたのでしょうか?
それは後醍醐天皇がまだ当時はやっていなかった朱子学の熱狂的な信者であったからです。ここで朱子学とはなにかということを、朱子学の成立過程とともにみていきましょう。

基本的に儒教は儒学ともいわれれるように、宗教というよりは学問の色が濃いわけです。特に礼儀・良徳・治世学などが儒教のメインです。
しかし朱子が生み出した朱子学というものは、それまでの儒学とは全く違う、イデオロギー色の強いものです。その根本に貫かれているのが「尊王賤覇」というもので、簡単に言うと「王」即ち皇帝を尊び、覇者を蔑むということです。覇者とは実力で天下を支配するもの、中国ではだいたいが異民族ですね。

この思想の誕生には成立過程を考えるとわかりやすいです。その当時、宋は遼・金に中国北部を奪われ、南に逃げざるを得ませんでした。そして「北を支配している奴は野蛮なやつらだ。本当はわれわれ南宋の皇帝が正しいんだ」と、負け犬の遠吠えというかそういう感じで、生まれたのが朱子学なんです。ですから非常にイデオロギー色の強いものになったわけです。

そして、これが日本に輸入されたのがだいたい鎌倉時代末期で、これに夢中になったのが後醍醐天皇というわけです。彼は朱子学を読んで、「おお、俺ってこんなに偉かったのか。んじゃ俺が政治をとるべきなのになんで幕府がやってるんだ。よし、とりかえそう。」とこういう感じで、幕府打倒に燃えたわけです。尊王の「王」を天皇のことだと解釈したわけです。後醍醐天皇は朱子学の成立過程についてよく知らなかったため、これが「負け犬の遠吠え学」だとは知らなかったのです。

そして後醍醐天皇は討幕運動を起こしました。しかし当時の人たちは朱子学についてよく知りませんでした。なのにどうして討幕運動は成功したのでしょうか? それはもはや鎌倉幕府が限界であったためです。いわゆる元寇を経て、鎌倉幕府の力はほとんどありませんでした。ですから、乱暴な言い方をすれば、天皇でなくとも誰でも良かったということです。

その後、後醍醐天皇は親政を行いますが、彼は鎌倉幕府を倒せたのは天皇の尊さであると考えていました。そして、それを前提に恩賞の分配などをしたため、武士層からすさまじい反発を受けました。
そして、その武士の代表者である尊氏が北朝を興し、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を興します。この当時力を持っていた武士の代表者である尊氏の北朝が時代にふさわしい政権であると言えます。そのため、南北朝の対立と言っても実質は北朝が圧倒的に強く、南朝は微々たる力しか持っていませんでした。

なのに南朝は意外にも長続きします。何故でしょうか?天皇だからでしょうか?
その原因は当時の相続事情を考えなければなりません。この時代は分割相続が一般化していましたが、それでも跡継ぎが一番所領を相続できるわけです。そうすると跡継ぎではない者は普通にやってるとちっぽけな所領しか相続できません。ちなみにその所有権を認めるのは幕府であるわけですが、ここに幕府と対立する南朝があるわけです。

仮に跡継ぎではない者をAとしましょう。Aは野心家で、なにがなんでも所領をいっぱい欲しいと思っています。もちろん跡継ぎであるBは武士の政権である北朝に所属しています。とゆうことはBの土地を自分のものにするためには、南朝に所属して北朝を倒せばいいわけです。こうして彼は南朝方につきます。南朝としても自分たちの身を守るために武士は絶対必要ですし、自分のものではない土地を誰にあげても痛くもかゆくもありません。
こうしてそれぞれの一族がばらばらになって、北朝・南朝に分かれたため決着がずっとつかなかったわけです。

結局南朝ってのは北朝のアンチテーゼとしてしか存在しえなかったのです。今の教科書ではこのへんにふれておらず、あたかも北朝南朝の動乱が天皇の存在のためのようになってます。これは明治政府の影響が今も残ってるからです。

では次に幕末について考えていきましょう。
幕末が南北朝時代と根本的に違うのは、江戸時代に朱子学が公の学問になったため、知識人はみんな「尊王蔑覇」について知っており、「尊王」というのは今でいう民主主義と同じくらい普遍的な思想でした。

もうひとつ違う点を挙げるとすれば、歴史にたいする意識でしょうか。当時、水戸黄門こと、水戸光圀によって編纂された「大日本史」によってようやく日本にも歴史というものが誕生しました。歴史の誕生により、悪いことをすれば歴史に名が残るという認識が時の権力者に生まれはじめたのです。しかも水戸光圀は大の朱子学好きでしたから、「大日本史」は南朝を正当な政権とし、足利尊氏を大悪人扱いするなど、天皇よりに書かれています。
そのため、天皇に逆らえば歴史に逆賊として名が残ることを怖れた慶喜は、圧倒的に幕府が優位であるにも関わらずひたすら恭順の道を選び、幕府は滅びてしまったのです。

明治維新があんなにすんなりと実現されたのは、外国の圧力もさることながら、朱子学によって天皇による政権交代が容易になったためなのです。 思想一つで歴史の流れが変わってしまうということを、朱子学は我々に物語っているのです。







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