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シーボルトの日本研究


みなさんはシーボルトというとどういうイメージをお持ちでしょうか?
おそらく鳴滝塾を開き、医学を教えた人というイメージがあると思います。もうすこし詳しく知っている人は日本研究家であることを知っているでしょう。シーボルトは日本の様々な文物をヨーロッパに持ち帰り、日本研究の先駆けとなった人なのです。その過程で彼は伊能忠敬の日本地図を国外に持ち出したのを幕府に咎められ、追放されています。
この日本研究はあくまで好奇心から出たものだと考える方が多いと思いますが、どうやらそうではないようなのです。(もちろん好奇心もあったでしょうが)どうやらシーボルトの日本研究にはオランダ政府の意向が大きく関わっていたようなのです。
そう、シーボルトはオランダ政府から派遣されたスパイであった可能性が高いのです。スパイと言っても別に破壊工作をするわけではなくて、まだヨーロッパによく知られていなかった日本のあらゆる情報を本国に送ることが目的でした。

シーボルトは動植物学に造詣が深く、いつかヨーロッパにとって未知の国である日本に行きたいと考えていました。これに目を付けたオランダ政府が、彼を調査員として日本に送り込んだのです。しかし彼は幕府に素性が知られると追放されてしまう人間でした。実はシーボルトはオランダ人ではなく、ドイツ人だったのです。 当時江戸幕府は鎖国体制下にあり、オランダ・中国にのみ門戸を開いていました。(門戸を開いていたとは言っても、出島から出ることは許されていなかったわけですが)ですからシーボルトは日本に入国することは本来許されないことだったのです。そこでオランダ政府は、彼をオランダ人医師と偽って入国させたのです。 のっけから法を犯していたわけで、彼はその後鳴滝塾で医学を教えるのですが、塾生から「先生のオランダ語の発音はちょっと変ですね」と何度も訊かれました。彼はそのとき「自分はオランダはオランダでも山オランダ出身なんだ。だから訛があるのさ」と言ったそうです。

とにかく無事に日本に入国したシーボルトですが、さっそく問題にぶち当たります。それは前にも触れたように、出島から一歩も出ることができない点でした。出島では日本人と接触する機会も日本の文物にも十分に触れることはできません。そこでオランダ政府は幕府に働きかけました。「シーボルトは本国でも優秀な医師です。彼に塾を開かせ医学を教えさせれば、日本の医学は大いに発達するでしょう・・・」
これによりシーボルトは塾という名目で長崎郊外に家を構えることができました。彼はこの鳴滝塾を中心に日本研究を本格的にはじめることになります。

ここで、何故オランダがそんなに日本を研究したがったかということに触れてみます。
当時オランダはナポレオン戦役により、その植民地の大部分を失ってしまいました。オランダに残った植民地はジャワ(インドネシア)だけでした。もともと貿易でなりたっている国だけに、植民地の減少はオランダにとって死活問題でした。オランダは唯一残ったジャワに賭けるしかしかありませんでした。
そこで、オランダだけが貿易権を持つ日本の産物の中で、ヨーロッパで高く売れそうなものをジャワで栽培し、新たな商品を生み出せないか考えたわけです。その市場調査員とも言うべき役割をシーボルトに委ねたわけです。当時オランダ政府とシーボルトがかわした文書も残っています。そこにははっきりと日本の産物の調査が指示されています。

シーボルトは塾生を最大限に利用しました。所詮外国人であるシーボルトでは、調査できる情報はたかが知れています。そこで彼は塾生にレポートという形で、日本の特産品やその栽培の仕方などを細かく報告させたのです。レポートという形を取ることで、塾生が色々な情報を調べても誰も疑問に思わなかったのです。 こうして得た情報を彼は逐一本国に報告していきました。彼が最も興味を示したのは茶であったようです。塾生のレポートには茶について実に様々な情報が載っています。

このように順調に調査を続けるシーボルトでしたが、ある日非常に魅力的なものに出会います。それは伊能忠敬の「大日本沿海與地全図」でした。彼はこの精密な地図を見て驚き、是非本国に持ち帰らねばと思いました。彼は幕臣で天文方である高橋景保に何度もアプローチをし、ついにこの地図を手に入れました。
しかし彼が帰国する際、このことを幕府に知られてしまい、シーボルトは国外追放、高橋景保は投獄されてしまいます。その後彼は許されて再来日し、娘のイネとの再会も果たします。(イネは長崎の女郎との間にできた子供)

彼は持ち帰った文物などをもとに、「Nippon」、「日本動物誌」、「日本植物誌」などを著し、ヨーロッパ学会で日本ブームの火付け役になりました。
19世紀は世界的に自然科学の研究が進んでおり、日本もその例外ではなかったんですね。日本が鎖国をしている間も、諸外国は様々な目的で日本へアプローチをしていたのです。


・・・・その後分かったことなのですが、どうやらこれに似たことがNHKの「堂々日本史」のなかで取り扱われたようです。
そちらのほうがよっぽど詳しいと思うので、再放送があったらそっちを見て下さい(^^;







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