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田沼意次について



田沼意次

普通田沼意次というと、その次に出てくる松平定信のクリーンなイメージに対し、賄賂にまみれた駄目な政治家というイメージがあります。しかしよく見てみると、田沼意次こそ時代から100年先駆けて生まれた、商業のわかる宰相だったという事が分かります。まず田沼意次が行った事業について見ていきましょう。
当時幕府は財政難に苦しんでいました。もはや吉宗の時代に新田開発は殆ど終わってしまい、年貢を増やそうとしても限界がありました。そこで彼は商業資本を積極的に利用して財政を立て直すしかないと考えたわけです。
まず彼は長崎における貿易を促進させるため規制を緩和するとともに、流出が激しかった金・銀の代わりに銅や俵物(干しアワビ・いりこ・ふかのひれ)を輸出し、金・銀の輸入を促進しました。
また株仲間を積極的に公認して、運上金(法人税のようなもの)の増収を図るとともに、専売制度を拡張し、幕府自らも商売を行いました。

彼はそれだけではなく、蝦夷地を開発し俵物を増産させるほか、なんとロシアとの貿易を狙っていました。当時ロシア船が頻繁に日本の海に現れており、工藤平助が「赤蝦夷風説考」で国防を訴えていました。彼はこの期にロシアと国交を結び貿易をすることによって、ロシアの脅威から日本を守ろうとしたのです。これは彼が世界観を持った為政者であることを証明するものです。

こんなに偉大なことをしようとしたのに何故彼は失脚したのでしょうか?それは江戸幕府の政治理念について考えねばなりません。
江戸幕府は徳川家康の出身が庄屋であったため、非常に農業色の濃い政権でした。一般的な学問であった朱子学も農業主義であったため、武士が商業に携わるのは卑しいことだという空気が当時あったのです。ですから商業を中心に幕府財政を立て直そうとしている田沼は、商人と組んで汚いことをしている者としてしか写らなかったのです。

また田沼と言えば賄賂ですが、これにもそれなりの理由があります。江戸政権は珍しいほど汚職が少なかった政権として有名ですが、それは武士のモラルの高さのためだけではなく、商業に表立って政権がタッチしていておらず、役人の裁量の余地があまりなかったためでもあるのです。田沼が商業を推進していく中で、賄賂は当然出てくるものなのです。もちろん田沼が自ら賄賂を求めたのも事実ですが、全く賄賂をなくすことはおそらく不可能であったでしょう。

このような理由から田沼は次第に他の幕閣から孤立していきます。さらに悪いことに、浅間山の噴火により、前代未聞の大飢饉である「天明の大飢饉」がおき、百姓一揆・打ちこわしが激発しました。ただでさえ人気の無かった田沼はこの天災により失脚してしまいます。

その後名君として仰がれた松平定信が老中となって「寛政の改革」を押し進めますが、結果は散々でした。それもそのはずで、彼のした改革というものは所詮貨幣経済に対応していない古い政治でしかなかったからです。しかし倹約とか聞くと、なんかまともな政治に見えてしまいます。倹約なんて消費を冷え込ませるわけですから、政策としてはあまり効果がないわけです。しかし我々の目にはは意次よりも定信の方がいい政治家に写るのはなぜでしょうか?
それは江戸時代を経た今の日本人にも、商業より農業を重視する牧歌的な政治を良いと潜在的に考える傾向があるからです。
確かに人格的には田沼意次より松平定信のほうが高潔ですが、それと政治は別物です。

松平定信
ちなみに有名な平賀源内と田沼意次は交流があったようです。ひょっとしたら田沼の政策に源内の懸案によるものもあったかも知れません。二人とも早く生まれすぎたため、他に理解してもらえず不遇の生涯を送ったところも似ていますね。
歴史を考える際には直感的なイメージを廃し、よくかみ砕いて捉えることが必要であるという代表的な事例であると言えます。








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