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 幕末人物名鑑
幕府関係 薩摩藩 長州藩 土佐藩
徳川慶喜
とくがわ よしのぶ 天保8年(1837)〜大正2年(1913) 享年77歳

 御三家の一つ、水戸徳川家に生まれる。斉昭の七男。一橋家を継ぎ、後に十五代将軍に就任。徳川幕府最後の将軍となる。
 時勢を鋭く見抜く頭脳を持ち、重大局面では果断な行動力を発揮し、ある面では慎重かつ思慮深く、有能な家臣を抜擢する度量もあり、西洋文化にも理解が深かった。
志士達にも一目置かれており、西郷隆盛などは慶喜を、「始祖家康の胆力に匹敵する」と言ってはばからなかった。しかし家康と決定的に違っていたのは、慶喜には学問があったことである。いや有りすぎたと言うべきだろうか。彼は国学の総本山・水戸出身で、誰よりも尊皇思想に造詣が深かった。そのため、自分が朝敵として歴史に名を残すのを病的に怖れ、圧倒的な軍事力を手にしながらも、鳥羽伏見の合戦後はひたすら遁走に遁走を重ね、恭順の態度を貫いた。
幕府・佐幕派にとって不幸だったのは、有能ではあるが、尊王という逆風の中指揮を取るには余りにも学問ができる慶喜が最後の将軍に就任したことだろう。

 もし、彼に執着・根性があれば、あれほど簡単には幕府は敗れはしなかっただろう。陸軍・海軍のどちらも薩長土肥四藩を遥かに凌いでいたのだから。
しかしその際には日本は長期の内戦に突入し、ヘタをすれば列強の植民地にされていたかもしれない。彼は結局のところ日本にとって一番良い道を選んでくれたのである。そして、それは図らずも彼が嫌っていた勝海舟の考えと一致するものであった。

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松平容保
まつだいら かたもり 天保6年(1835)〜明治26年(1893) 享年59歳

 会津藩主。尾張徳川家の分家、美濃高須松平家3万石に生まれる。実父の異母兄が会津藩主だったため、12歳で養子に入り、18歳で会津23万石の藩主となる。
 尊王攘夷派志士たちのテロが最も過熱した文久年間には、京都守護職を拝命。藩士を率いて上洛し、また新撰組を後押しして京の治安維持に尽力した。
 「会津藩を滅ぼしてでも将軍家を守り抜け。他藩の例に倣うな」という、異常ともいえる家訓を遵守し、これが容保、ひいては会津藩に悲劇の宿命を背負わせることとなった。
 養子に入って以来、毎日飽くことなく老臣に繰り返されるうちに、容保はこの呪文の魔力に縛られていった。元来、生真面目でバカがつくほど正直な容保の性格も、災いしたといっていいかもしれない。西郷頼母を初め、重臣一同が「薪を背負いて火中に身を投じるようなもの」と諌めた京都守護職を、結局引き受けてしまったのも、それが将軍家を救うためと信じたからである。

 しかしそんな性格を、徳川慶喜や松平慶永にはある意味、利用された。容保なら決して裏切らない。そればかりか、盾となって将軍家を守るだろう。その読み通り会津は薩長他、倒幕派の憎悪を一身にかぶり、"朝敵"として戊辰の役で全藩壊滅する。
 唯一の救いは、崇拝して止まなかった孝明帝が容保を無二の忠臣と頼り、まるで弟のようにかわいがってくれたことだろう。孝明帝から贈られた宸翰を、容保は終生手離さなかった。今でもこの宸翰は、容保の無念と共に某銀行の金庫に眠っているという。


勝海舟
かつ かいしゅう 文政6年(1823)〜明治32年(1899) 享年77歳

 江戸の貧乏旗本の家に生まれる。典型的な江戸っ子で、しゃべり出したらもう止まらないマシンガン・トークが有名。人の弱点を見抜き、イヤミを言うことにかけては天下一品。根は陽気なのだが、いじわるな一面もあり、皮肉屋だった。
 世の中の人間が阿呆に見えて仕方がなかったというが、それは勝が突出した才能の持ち主だった証拠。剣術、砲術、軍学、蘭学に精通し、西洋の書物をむさぼるように読み、欧米社会の政治制度や国のカタチを鋭く見抜いていた。
 幕末屈指の学者であり、開明的な識者であり、かつ行動家だったが、幕臣という彼の立場を考えると、その柔軟な行動姿勢はまさに奇跡というべきものだった。

 幕臣という立場上、直接倒幕運動にタッチはしなかったが、坂本龍馬や後の海援隊のメンバーを初め、西郷隆盛などの志士たちを育てた功績は大。幕府独裁の政治では日本が欧米列強に飲み込まれ、植民地化されることを見抜いており、幕府上層部にもたびたび改革案を提言していた。が、それがために疎まれ、政治の場から遠ざけられることもしばしば。特に慶喜との仲の悪さは有名である。
 ハッタリ屋でホラ吹きといわれたが、勝の天才的思考法は常人に理解できるものではなく、誤解を招くことも多かった。しかし同時代人の英傑、俊才たちはみな、勝の確かな時勢眼に恐れをなし、敬服していた。彼の時代を超越した眼は、当時より複雑化した現代でも通用するものである。

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大久保一翁
おおくぼ いちおう 文化14年(1817)〜明治21年(1888) 享年72歳

 本名は忠寛(ただひろ)。三河以来の名門旗本の家に生まれる。物腰穏やかで、誰と接する時でも常に微笑をたたえていたという。しかしその柔和な雰囲気の裏にある正体は、恐るべき頭脳と情勢分析の才能を持った、幕末第一のテクノクラートだった。
 一翁は英邁な老中として知られた阿部正弘に見出され、外国、京都奉行など重職を歴任。勝海舟を阿部に推挙したのも一翁である。代々の旗本で、しかもエリート中のエリートだったが、実際には早くから幕府の滅亡を見抜いていた。かといって朝廷に政治能力のないことも、鋭敏な一翁には分かりきっていた。

 そんな一翁がたどり着いたのは、政権を一旦朝廷に返し、改めて優れた政治力を持った人材を集めて国政を任せるという道だった。つまり大政奉還と議会政治のことであり、驚くことに一翁は早くも文久年間にこの二つを公に提唱している。徳川慶喜が大政奉還に踏みきるのは5、6年も後のことで、この一事を見ても、一翁の頭脳がどれだけ先進性に富み、かつ的確だったかが分かる。
 しかし一翁は旗本育ちらしく、自分で時代を切り開こうとするタイプではなかった。龍馬のように若く、エネルギーに満ちた行動家に知恵を授け、その活躍を見守るというのが彼の役割であったのだろう。







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