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 幕末人物名鑑
幕府関係 薩摩藩 長州藩 土佐藩
山内容堂
やまのうち ようどう 文政10年(1827)〜明治5年(1872) 享年46歳

 土佐藩藩主。板垣退助や後藤象二郎などの逸材を抜擢し、土佐藩を時勢の中枢に押し上げた名君。無責任で無能なのが当たり前の"殿様"という種族の中で、容堂は独自の思考力を持ち、高度な政治力と判断力を備えた幕末でも屈指の大名だった。
 自身を織田信長になぞらえたように、かなりの自信家で、目立たないと気が済まないタチだった。それゆえ佐幕派・尊王派両方にいい格好をしようとし、結果的に薩長に主導権を握られてしまった。土佐が次世代のポリティカルレースに生き残ることができたのは、大政奉還や船中八策など龍馬の活躍無しにはありえなかっただろう。

 藩祖、山内一豊が徳川家に大恩を受けたから、というのが容堂の佐幕思想の根幹になっていたが、実際には下級階層の武士たちが主軸となった薩長閥に対する嫌悪感が、最大の動機だったようにも思える。
このように、明晰な判断力を持っていた容堂であったが、土佐藩に根付いていた差別意識からは抜け出すことはできず、武市半平太や坂本龍馬を「郷士だから」という理由だけで虫ケラのように扱った。維新後になってやっと強固な差別思想もやわらぎ、武市や龍馬を失った大きさに気づいたという。

 洒脱な人で、自らを鯨海酔侯(鯨の泳ぐ海、すなわち土佐湾の酔っぱらい大名)と号して日に3升の酒を飲んだといわれる。維新後には要職に就くも、周囲の成り上がり者たちになじまず隠棲。妾を十数人も囲い、酒と女に明け暮れる豪奢な晩年を送った。


板垣退助(乾退助)
いたがき たいすけ 天保8年(1837)〜大正8年(1919) 享年83歳

 土佐藩士。300石取りの上士で、隣家の後藤象二郎とは幼なじみ。幕末から共に明治政府の高官となってから、互いを助け合う仲だった。高杉晋作と並ぶ実戦指揮の天才で、土佐藩の実質的な陸軍司令となり、薩長に次ぐ倒幕勢力に育て上げた。
 若い頃は喧嘩を探して城下を歩いたという剛の者。上士、郷士構わずに因縁をふっかけ、思う存分叩きのめす毎日を送っていたという。
 吉田東洋の門下生だったため、当初は佐幕的な考えを持っていたが、坂本龍馬や中岡慎太郎らに感化されて倒幕論を唱えるようになる。また上士には珍しく郷士への偏見が薄く、龍馬、中岡らとも親交を結んでいた。この点では、竹馬の友の後藤とは少々異なる。しかし師の東洋を殺された恨みから、土佐勤皇党の弾圧には情け容赦なく、武市以下、党員を一斉に処刑している。

 山内容堂は、板垣の勤皇思想を「過激で無知の証拠」とたしなめたが、一本気で情に厚い性格と、武人としての資質を高く買っていた。
しかし維新後は陸軍の長州、海軍の薩摩という流れがあったため、軍人から政治家へ転向せざるをえなかった。本来軍人になるべき人間が、刀よりも弁論で自由を勝ち取る自由民権運動の先駆者となったのは皮肉である。

上の写真以外はここ

後藤象二郎
ごとう しょうじろう 天保9年(1838)〜明治30年(1897) 享年60歳

 幼少時に父を亡くしたため、義理の叔父、吉田東洋の薫陶を受けて育つ。若くして才覚を発揮し、郡奉行や普請奉行、近習目付などを歴任。後に土佐藩の参政となり、山内容堂の懐刀として、土佐藩を倒幕勢力の柱の一つに押し上げる。東洋の暗殺後、江戸で蘭学や航海術を学び、英語にも目を向けるなど先見の明があった。いずれの学問においても抜きん出た学才を見せ、エリートコースを着々と歩む。
 思想的には、幕府に同情的だった東洋、容堂両名の影響を強く受け、自身も土壇場までは公武合体論者だった。また土佐は古来、上士・郷士間の身分差が甚だしく、上士だった後藤も例に漏れず郷士を厳しく差別した。過激な尊攘論を唱える土佐勤皇党を激しく憎み、盟主、武市半平太を筆頭に党員を一斉に処刑。遺恨を残す。

 しかしイギリスの外交官で日本通だったアーネスト・サトーは、後藤をして「懐が深く、何事にも動じない度量を持ち、西郷(隆盛)と比肩し得る人物」と高く評価している。実際、時流が煮詰まって公武合体論が有名無実となると、武市の親友で倒幕活動家の坂本龍馬に接近。助力を求めた。龍馬もこれに応え、大政奉還、船中八策など起死回生の秘策を後藤に授け、土佐藩は倒幕勢力の一翼にすべり込むことができた。

「大風呂敷」のあだ名の通り、スケールは大きいのだが細かいところに思慮が行き届かないところがあり、維新後は失敗ばかりが目立つ後半生を送った。

坂本龍馬 変名:才谷梅太郎
さかもと りょうま 天保6年(1835)〜慶応3年(1867) 享年33歳

 土佐藩の郷士。後に脱藩し、日本初の交易商社である亀山社中を結成。またそれを発展させた商社兼私設海軍兼出版社の海援隊を創設する。
 実家は才谷屋という富商。北辰一刀流免許皆伝。が、生涯その剣で人を殺めたことはなく、唯一寺田屋事件の際、仕方なく拳銃(高杉晋作から贈られたという)で幕吏を二人、殺傷している。動乱の世を生きる志士としては、致命的なまでに心優しい性格だった。

 身なりには無頓着で髪もボサボサ、衣服は旅塵にまみれ、いつも垢でテカテカに光っていた。それなのに、福岡田鶴、平井加帆、千葉佐那、お登勢、お龍、丸山遊郭のお元など、女にモテまくった。つまり、『男』としての魅力を溢れるほど備えていた証拠であり、河田小龍を皮切りに勝海舟、横井小楠、大久保一翁、松平慶永など天下の賢者たちにかわいがられたのも、人を惹きつけて離さない、底なしの魅力があったから。

 先天的なカンの冴えがあり、西洋の文物や社会制度、国政のシステムを敏感に吸収することができた。当時志士達の中で唯一、世界レベルで日本を考えられる男であったのではないか。彼が言ったといわれている、「世界の海援隊でもやりましょうかな。」というセリフはあまりにも有名である。

上の写真以外はここ

武市半平太
たけち はんぺいた 文政12年(1829)〜慶応元年(1865) 享年37歳

 土佐藩の郷士だったが、身分は白札という上士扱いだった。土佐を代表する尊攘運動家。土佐勤皇党を結成し、藩を挙げて尊王攘夷運動に巻き込もうとしたが、山内容堂や後藤象二郎ら藩指導部と対立。多くの党員とともに弾圧、処刑された。
 小野派一刀流と鏡新明智流を修めた一流の剣客。さらに和漢の学から書画にまで才を見せ、若くして長者の風格を備えた人物だった。 また長州、薩摩など他藩にも広く名を知られ、西郷隆盛は維新後、「武市先生が生きておられれば、オイごときが今、こうしていばってはおられませぬ」と、その存在を高く評価していた。
 身長は180p以上もあった偉丈夫で、瑞山と号し、先生と崇拝されたが、それに奢らぬ篤実な性格だった。顔色は女性のように白く、酒は一滴もダメ。オマケに甘党で夫人以外の女性にも興味は持たないという、謹厳実直の人。エラが張っていたために、親友の坂本龍馬からアギ(土佐の方言であごのこと)と呼ばれていたという。

 天皇好きとあだ名されるほど強固な勤皇思想を持ち、土佐勤皇党の結成後には郷士層の指導者として、藩政府に大きな影響力を持ったが、最後まで藩というものから抜け出せなかった。
 また、目的達成のために「暗殺」という非常手段を用いることがしばしばで、特に京で威勢をふるっていた頃には、岡田以蔵や田中新兵衛を使って、佐幕派の人物を次々に葬った。武市の指令で殺されたといわれる人物は、史料に残っているだけでも数十に及ぶ。こうした陰湿な部分は、親友の龍馬とは対照的だった。


中岡慎太郎 変名:石川清之介
なかおか しんたろう 天保9年(1838)〜慶応3年(1867) 享年30歳

 土佐の大庄屋の息子。間崎哲馬や武市半平太に師事し、土佐勤皇党に加盟。尊攘思想に目覚める。後に坂本龍馬などと倒幕運動を展開。
 西郷隆盛をして『土佐犬のような御仁』と言わしめた、激しい性格。特に自分の信念は絶対に曲げない頑固さがあり、それを貫くためにはいかなる犠牲も厭わぬ覚悟があった。また理論家で、とにかく弁が立った。それも強固な信念に基づく一種、悲壮感をともなった話し方で、聞く側の胸中にずしんと響く重厚さがあったという。
 滅多に怒ることはなかったが、ひと度怒気を発すると相手が誰であろうと食らいついていった。その点でも、やはり『土佐犬』だったのだろう。

 また信義を重んじ、西郷が薩長同盟の談判を土壇場で蹴った時には、切腹して責任を取ろうとした。逆説的にいえば柔軟性に乏しいことにもなり、その点を龍馬にたしなめられている。最終的に中岡は、内戦を起こして幕府を倒そうという武力倒幕に傾倒したが、それまで共に同じ道を歩みながら、平和的解決策で世の中を変えようとした龍馬と袂を別ったのも、この柔軟性に大きな違いがあったからだろう。

 土佐犬にしては裁縫や料理が得意で、また現存する写真の中には左のように、当時の志士としては珍しく、頬杖をついてニッコリ笑っているものがある。根は非常に優しい人物だった。

上の写真以外はここ

坂本乙女
さかもと おとめ 天保3年(1832)〜明治12年(1879) 享年47歳

 坂本龍馬には3人の姉がいたが、最も龍馬を理解し、最も愛した姉はこの乙女だった。身長約175p、体重約80sと、現代人と比べても女性にしてはとても大柄。剣術に馬術、弓術、水泳が達者で、和歌や絵も嗜み、舞踊や三味線、琴もこなす多彩な女性だった。

 性格は龍馬以上に激しく、医師、岡上樹庵と結婚するが、やがて離縁して実家に戻ってくるほどだった。もっとも樹庵は癇癪持ちで女グセが悪かった。身長はわずか150pほどで、自分より体が大きく性格も大らかな妻にコンプレックスを抱いていたという。

 龍馬への接し方には、乙女の愛の深さがうかがえる。寝小便垂れで、勉強もできないいじめられっ子の弟に、乙女はまるで母のように接する。わずか3歳年上のこの姉が、青年期までには龍馬の心からコンプレックスを全て取り除いてくれた。何より、もともと体格の良かった龍馬に、剣を仕込んで自信をつけさせたのが大きい。河田小龍、勝海舟など、龍馬は何人もの偉大な師に出会ったが、彼ら以上に、乙女姉さんという師の存在は大きかった。


坂本権平
さかもと ごんぺい 文化11年(1814)〜明治4年(1871) 享年57歳

 坂本八平直足の長男で、龍馬の兄。妹、乙女があまりに有名なため目立った印象が少ないが、この人もやはり龍馬の生き方に大きな影響を与えた。何しろ龍馬とは21歳も年が離れている。母、幸は龍馬が12歳の時に亡くなり、父、八平は20歳で他界。以後は権平が一人で家を支え、文字通り龍馬の父親代わりを務めた。

 龍馬は亀山社中の結成以後、資金繰りや船の購入費、部下たちへの給金などで、経済的に苦労する。しかし実際には、志士として非常に恵まれた環境にあり、お金に困るという経験をほとんど味わったことがない。実家は裕福な商家で、あまりにお金持ちだったため、郷士株を買ったという家柄。龍馬の志士活動を影から支えたのは、弟のために危険を承知でいつもお金を送ってくれた実家、すなわち権平だったのだ。

温厚篤実、生真面目な性格だったが、剣術をよくし、また徳弘孝蔵の門弟として西洋砲術も学んでいる。







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