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 龍馬日記(標準版)
少年編 剣術修行編 土佐帰国編 再度の江戸
剣術修行編

天保六年(1835)

十一月十五日(1/3)

坂本龍馬、高知城下本丁筋一丁目に生まれる。父は八平直足、母は幸子。
背中に不思議な毛が生えていたという。

解説
八平はこの時39歳で、幸は38歳。長兄の権平はすでに22歳になっており、その下に19歳の千鶴、年齢未詳の栄、4歳の乙女という三人の姉があった。

ただし龍馬の生まれた日性格には判明していません。主要な伝記をみても、10月15日、11月10日、11月15日と、三通りの説があり、龍馬の妻のお龍でさえも維新後こう答えています。
「龍馬の生まれた日ですか、天保六年の11月15日で丁度斬られた日と一緒だったと聞いているのですが、書物には10月とあります。どちらが正しいか分かりません。」
妻ですら自信がないようです。ここではお龍を信じて11月15日としました。


弘化三年(1846)

六月十日(8/1)

母幸、没する。龍馬この時十二歳。
この後、姉乙女が龍馬の世話をするようになる。

この頃小高坂村の楠山塾に入門するが、学友に度々いじめられ、遂にある時抜刀騒ぎを起こしてしまう。
心配した父が塾に通うのをやめさせたため、龍馬は文学を学ぶ機会を失った。

解説
幸が38歳という、当時としては高齢で生まれた子だったためか、乳母によって授乳・養育されたようです。龍馬はこの乳母のことを生涯気にかけており、慶応元年9月7日付の手紙でも「あの南町の乳母がどうしているか時々気になります。」などと書いています。
また姉乙女の存在も龍馬の成長に大きな影響を与え、龍馬自身は妻のお龍に対してこう語っていたといいます。
「おれは若いとき、親と死別してからは乙女姉さんの世話になって成長したので、親の恩より姉さんの恩が太いってね。」

塾の退学の件ですが、龍馬はこれ以降正式に学問を学ぶ機会がなかったらしく、のちに「自分は若い頃に学問をやめたので、今は不幸にも無学者となってしまった。」と他人に語っていたそうです。


嘉永元年(1848)

龍馬、城下築屋敷の日根野弁治道場に入門し、小栗流剣術を学び始める。
体つきがたくましくなり、性格もがらりと変わったという。

この頃龍馬は水泳の稽古もしていたが、ある朝雨が激しく降っているのに稽古の場へ行こうとする龍馬を師匠が見つけた。
師匠がどこへ行くのかと聞くと、龍馬はもちろん稽古に行くところですと答えたので、師匠はあきれて、この天気では今日の稽古は休んだ方がいいと言ったところ、龍馬は大笑いし、川で泳ぐのだから雨でも晴れでも濡れるじゃありませんかと答えたという。

解説
小栗流は徳川家康の家臣である小栗仁右衛門によって創始された武術で、剣術、柔術のほか居合、槍法、騎射、長刀、水泳、水馬などの諸武芸を総合したものでした。
龍馬が学んだ日根野弁治はこの年34歳。道場があった築屋敷は本丁筋からほど近く、それが龍馬が小栗流入門を決めた理由だったのでしょう。


嘉永三年(1850)

父の知り合いの島が工事の監督として幡多郡に出張するのに随行したが、工夫の扱い方が非常にうまかったので、島は龍馬を実に頼もしい若者だと賞賛した。

解説
剣術との出会いによって心身ともにたくましく成長した龍馬は、早くも卓越した指導力の片鱗をうかがわせるようになりました。
龍馬が土木工事の監督を務めたことについては、やや唐突に感じられますが、これは坂本家がもともと幡多郡の開墾を目的に募集された「幡多郷士」だったためでしょう。


嘉永四年(1851)

三月二十七日(4/28)

父八平、郷士職を長男の権平に譲る。

解説
八平はこの年、55歳。当時にしてはすでに老齢でした。以後、長男の権平が「代勤」ということで郷士職をつとめることになり、龍馬の立場はこのときを境に「八平倅(せがれ)」から「権平弟」に変わりました。









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