トップページへ!
徹歴序文。徹歴の始まりはここから
徹歴案内図。徹歴に初めて訪れた方はご参考に
徹歴の常連たちの紹介です。あなたも常連になったら書こう!
徹歴の主宰支部長の部屋
徹歴瓦版。最新の歴史ニュースをキャッチ
ゲストブック。来訪の記念にどうぞ
徹歴掲示板
徹歴フォーラム
徹歴チャット
徹歴イベント掲示板
徹歴伝言板
徹歴リンク
よもやま社中








徹歴ラウンジ
徹歴図書館
徹歴研究所

←押すと幕末館目次に戻ります
 龍馬日記(標準版)
少年編 剣術修行編 土佐帰国編 再度の江戸
剣術修行編
安政三年(1856)

七月二十九日(8/29)

再度の武芸修行のため、翌年9月までの国暇を願い出る。
解説
ペリー来航後、悠々と剣術修行に出かけることを許可されるはずはない、とする意見もあります。確かに土佐藩では一部の藩士に対して「臨時御用」と称する武役を命じていました。
ここで同時期に江戸に出た武市半平太の場合を考えてみましょう。武市の場合は江戸行きの目的は「臨時御用」でしたが、同時に剣術修行も命じられているのです。ですから、一概には言えませんが、同時期に剣術修行のために江戸へ向かう人物である以上、龍馬の場合も同様であった可能性が高いですね。


八月四日(9/2)

剣術修行のための江戸行きが許可される。


八月十九日(9/17)

翌日の出立に伴い、通行手形などを受け取る。


九月下旬頃

江戸に到着し、築地の土佐藩中屋敷に入る。
解説
土佐を予定通り8月20日に出立したとすれば、江戸到着は9月下旬頃のことになります。


九月二十九日(10/27)

相良屋源之助に江戸到着を報告する。
 一筆差し上げます。段々寒くなってきましたが、お元気だということで目出度く思います。道中何事もなく江戸に着任し築地屋敷に入りました。出立の際は気にかけてくださり、見事な贈り物をいただき、まことに申し訳有りませんでした。早速お礼を申し上げねばならないところを、遅れてしまったことをお許し下さい。
  九月二十九日      坂本龍馬
   相良屋源之助様 御左右
解説
相良屋源之助は高知城下の商人と思われます。龍馬は土佐を出立するにあたって、相良屋から餞別を受け取っていたのでしょう。その返礼を兼ねて、江戸に無事到着した旨を書状にしたためている。
また築地屋敷とは築地にある土佐藩中屋敷であったことが裏付けられる。


安政四年(1857)

八月四日(9/21)

山本琢麿の時計拾得事件が起きる。
解説
これは龍馬の有名なエピソードの一つで、従弟の琢麿がある日時計を盗んで売ってしまい、罪を償うには切腹するほかはないという状況であったのを、龍馬の温情によって命を救われ、江戸から追放されたという話です。龍馬の温かさが伝わってくるエピソードとしてよく出てくるのですが、どうも様子が違うのです。
龍馬の親友であった武市半平太の書簡によると、武市は龍馬と共に問題解決に尽くしたが、張本人の山本琢麿がこの月の13日ごろに行方をくらましてしまったというのです。文面からは龍馬が武市に知らせずに琢麿を逃亡させたようにも思えませんので、琢麿は自分の判断で逃走したと思われます。
そもそもこの逸話は「汗血千里駒」という龍馬の伝記が元になっており、他の伝記もこれを踏襲しただけなのかもしれません。
ちなみに琢麿は維新後は沢辺数馬と名乗り、ロシア正教修道司祭ニコライから洗礼を受けてキリスト教徒になりました。東京神田のニコライ堂は、この沢辺数馬の尽力によって建てられたものです。


安政五年(1858)

一月某日

「北辰一刀流長刀兵法目録」を千葉定吉から授けられる。
解説
龍馬が千葉道場での修行に対して与えられた免許類で、現存しているのはこれだけです。ですから龍馬が北辰一刀流の目録、免許皆伝などのどこまで行ったかは分かっていないのです。









徹歴のコンテンツの著作権は徹歴に属します。
copyright. tetsureki.com all rights reserved

tetsureki@infoseek.jp


2ch勢い
2ch